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ご訪問ありがとうございます。マスメディアの一角で働く美浦克教が「メディア」や「労働」を主なテーマに運営します。初めてお出での方はカテゴリ「管理人ごあいさつと自己紹介」をご覧ください。


by news-worker2
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 以前のエントリーでお知らせした通り、本ブログ(エキサイト版「ニュース・ワーカー2」)は2008年11月末日をもって更新を停止し、「ニュース・ワーカー2」は「はてなダイアリー」に引越しました。ただし「はてな」版のエントリーは2008年11月以降のものです。2008年4月から10月までのエントリーは、本エキサイト版をご参照ください。
 
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はてな版「ニュース・ワーカー2」
http://d.hatena.ne.jp/news-worker/
# by news-worker2 | 2008-12-01 00:12 | 管理人ごあいさつと自己紹介
はてなダイアリーへ引っ越し準備中です

読書:「次世代マーケティングプラットホーム」(湯川鶴章 ソフトバンククリエイティブ)_d0140015_1464464.jpg マスメディア、それも新聞産業の編集職場で働いていると、新聞記者が語るジャーナリズムは、「新聞」というマス媒体が今後も今までと同じようなマス媒体であり続けることが前提になっている、と感じます。「新聞が読まれなくなっている」こと自体は、最近では新聞社内で販売部門や広告部門だけでなく、編集部門の記者でもみな自覚しています。しかし「どういう風に読まれなくなっているか」となると、考えている人は意外と少ないのではないかと思います。新聞を手に取ってくれる人が減ってきていることは知っている。しかし「読者」と聞いて思い描くイメージは今までと変わらない「マスの人々」のまま。新聞記者の多くは、それが実状ではないか。日々、働いている中でのわたしの実感です。
 少しだけ具体的に言えば、新聞の作り手の側が考えるジャーナリズムでは「生活」とか「生活者」が大きなキーワードになっています。年金問題にしても、医師不足など医療問題にしても、あるいは米国発の金融・経済危機にしても、それをどう報道していくかというときに必ず「生活にどうかかわるか」「生活者の視線で」ということが重視されます。用語のバリエーションとしては「庶民」もこうした発想に含まれています。少し前に、新聞各紙がこぞってルポ風に取り上げた麻生首相のホテル・バー通いなどは、こうした発想がストレートに記事に反映された例と言っていいと思います。
 わたしは最近、そうした「読者=生活者=庶民=マスの人々」という新聞の作り手側の画一的とも言っていい発想に、違和感を抱くようになってきました。働き方一つを取っても、賃金労働者の3分の1以上を、派遣社員をはじめとする細切れ雇用の「非正規労働者」が占めるようになって久しいというのに、あたかも均一な「マス」が以前と同じように読者として記事を待っているかのような発想から抜け出ていないのではないか、という気がしています。ワーキングプアと呼ばれる貧困層にとって、朝夕刊セットで月々4000円近い大手紙の購読料は、それこそ「生活」防衛のためには真っ先に切り捨てられる項目でしょう。何の疑いもなく「夫婦と子ども2人の標準的な世帯の場合」といった例えが書かれている記事を、結婚したくともできない、子どもを産みたいと思っても産めない非正規雇用の若年層が読みたいと思うでしょうか。
 営業部門だけではなく編集部門の記者も、いや記者職こそ、「読者」を真剣に考えなければならないと思います。いったい、だれに読んでもらうために取材し記事を書くのか、ということです。そもそも取材にコストがかかることは、記者ならだれでも知っています。コストをかけて(何人もの記者を抱える人件費も含めて)丹念な取材ができることが新聞のジャーナリズムの特長である以上、そのコストをどうひねり出すかという問題は、一義的には経営の問題だとしても、今や「だれに何を読んでもらうのか、そしてだれから金をもらうのか」という意味で、編集のジャーナリズムも無関係ではありえません。新聞のジャーナリズムのどこがどう変わっていけばいいのか、答えはそんなに簡単には見いだせないと思いますが、議論と模索は必要です。
 前置きが長くなりましたが、そんなことを考えているときに時事通信編集委員の湯川鶴章さんの新著が刊行されました。一般にはタイトルからも内容の面でも、広告論として読まれているようですが、新聞をメインとする既存マスメディアの編集職場にいるわたしにとっては、新聞のジャーナリズムの今後を模索する上で示唆に富んだ一冊になりました。
 繰り返し登場するキーワードは漫画サザエさんに出てくる「三河屋さん」。磯野家の家族構成はもちろんのこと、しょう油1本にしても「そろそろ切れるころだ」と思ったら注文取りのときに「しょう油はどうしますか」と水を向け、波平さんの血圧が高ければ減塩の商品を奨める。例えればそんな情景で、顧客の嗜好・事情ごとにきめ細かく対応する情報サービスがデジタルの技術革新によって実現し、将来は広告のみならず消費行動そのものまで変わっていく、との指摘が、米国の最新事情の取材成果とともに示され、質の高いルポルタージュを読んでいるようなおもしろさに、知らず知らずのうちに引き込まれます。
 本書で直接、紹介されているのは広告ですが、これを記事(ニュース)の流れに置き換えればどうなるだろうか、ということを読んでいる最中から考えていました。新聞にしてもテレビにしても、ニュースは送り手側が「これがニュースだ」と判断したものを独自にパッケージにまとめて、マスの読者に向けて発信してきました。新聞社が自社サイトを設けてネット上でもニュースを発信するようになっても、根っこのところのニュースに対する考え方は変わりがありません。話をすっきりさせるために、新聞に限定して書いていきますが、新聞社からマス読者へ、「1対多数」の関係です。
 しかし、ネットとテクノロジーによって、まず広告が「1対多数」から「1対1」にシフトしていくのだとしたら、この先に何が起きるのでしょうか。新聞社の収益は大きく言えば広告料と購読料の2つです。新聞の広告媒体としての地位の低下と、販売部数の低迷が新聞社の経営を大きく揺さぶりつつあることは一般にも知られるようになっています。既に新聞社はどこも相当な金と人手をかけてネット展開に乗り出していますが、本気で新たな収益源の確保をネットに求めようとするなら、少なくとも画一的な「読者=生活者=庶民=マスの人々」を想定したような、従来のジャーナリズムだけでは太刀打ちできないと思います。マスの中の一人ひとりの「個」を見ながら「1対1」の関係を想定したジャーナリズムの可能性をいかに模索していくのか。情報の送り手と受け手の「1対1」の関係の集積としての「マス」、その意味でのマスメディアにどうやって自らを変えていくのか。当然、読者との間に双方向の関係もなければならないでしょうし、メディア内部での「個」の尊重という観点も重要です。要は、ジャーナリズムの中味も変わらなければ、新聞社は企業としても、ジャーナリズムとしても生き残れないのではないか。そこに経営者はもちろんのこと、一人ひとりの記者も気付くかどうかがポイントなのだという気がしています。
 湯川さんが本書を書かれた意図、訴えたかったことを正確にわたしが理解できているかどうかは心もとないのですが、以上が新聞記者の一人としてのわたしなりの読後感です。

 湯川さんには新聞労連の専従役員時代、労連の学習集会などで何度も講師をお願いしました。ネット社会をどう考えていけばいいのか、当時、湯川さんに教えていただいたことを一つひとつ思い出しながら、わたしの立場でわたしなりの実践を模索しています。本書も1人でも多くの新聞記者に読んでほしいと思います。
# by news-worker2 | 2008-11-30 13:53 | 読書
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お知らせ:12月9日のNPJ勉強会に参加します_d0140015_138499.jpg お知らせです。いつもこのブログのエントリーを紹介いただいているニュースサイト「NPJ」(News for the People in Japan)にお誘いをいただき、12月9日午後5時半から東京・立教大学で行われる勉強会「マスメディアと市民メディア 何が伝えられるの?~伝わることと伝わらないこと~」にパネリストの1人として参加することになりました。詳しくはこちらをご覧ください。
 他のパネリストは下村健一さん、田畑光永さん、NPJ編集長の弁護士日隅一雄さんで、コーディネーターは立教大学の服部孝章先生。そうそうたる皆さんの中で、わたしだけ場違いな感じもして気後れしそうなのですが、マスメディアの一角で働く記者の一人として、現場の声のようなものを伝えることが役どころだろうと思います。併せて、市民メディアとマスメディアの間のより良い関係について、わたしなりに思うところもお話できれば、と考えています。
# by news-worker2 | 2008-11-27 01:38 | 新聞・マスメディア
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 さいたま市南区で18日午前、元厚生省事務次官の山口剛彦さん夫妻が殺害されているのが見つかり、夜には東京都中野区でやはり元厚生省事務次官の吉原健二さんの妻が自宅で刺され重傷を負った事件は、22日夜になって警視庁に血の付いたナイフなどを持った男(小泉毅容疑者)がレンタカーで出頭し、捜査が大きく展開しました。「ペットを保健所に殺された」などの供述は動機として理解しにくく、本当に彼が真犯人なのか、ということも含めて、事件の全体像の解明にはなお時間がかかると思います。新聞をはじめマスメディアは、予断を排してまずは事実を伝えていくことに徹しなければならない、そういう事件だと思います。
 「予断を排して事実を伝える」ということにも大きくかかわってくるのですが、この事件の報道をめぐっては、事件発生以来、気になっていることがあります。「テロ」という用語です。
 事件と報道の経緯を簡単に振り返ると、まず18日午前、山口さん夫妻が自宅で殺害されているのが見つかりました。この時点では、山口さんが元厚生次官という高級官僚だったことに驚きはあったものの、警察の捜査も報道も、怨恨なのか強盗殺人なのかなどを含めて予断を排した慎重な姿勢でした。しかし、その日の夜、吉原さんの妻が襲われたことが判明すると、状況は一変します。マスメディアの報道は早い段階からほぼ一斉に「政治的目的を持った連続テロの可能性」を前面に出します。警察当局がそうした見方をいち早く打ち出したことが最大の要因だったと思います。被害者像が「ともに事務次官経験者の元厚生官僚」に加え「ともに年金行政の専門家とされ、同時期に『年金局長―年金課長』を務めていた接点がある」など、相次いで襲われたことは「偶然」とは考えにくく、いわゆる「消えた年金問題」などで厚生労働省、社会保険庁が批判を浴びていたことなどを考えれば、警察、あるいは政府とすれば、犯人逮捕もさることながら第三の被害を未然に防ぐことの方がより切迫した課題だったと思います。
 明けて19日、仮に政治的な目的を秘めた「連続テロ」ならば、犯人から何らかのメッセージが発せられるのではないかという予測がありましたが、結局は何もありませんでした。20日以降、2件の事件の共通点がいっそう鮮明になり、同一犯説が強まっていきますが、報道からは「テロ」という用語は後退していきました。
 さて、わたしが気になっているのは、18日夜の段階で警察や政府当局が「連続テロ」を想定することと、新聞などマスメディアが事件を「連続テロ」として、ないしは「連続テロの可能性」を報じることとを、当のマスメディアはどこまで峻別していたか、あるいは峻別しようとしたか、ということです。手元の新聞で調べた東京都内発行6紙の19日付朝刊の第一面本記がどんな見出しになっていたかを列記します。

 ▽朝日新聞
元厚生次官狙い連続テロか」「山口夫妻殺害 吉原氏の妻重傷」「年金改革進めた2人」
(本文中は「警察庁は連続テロとの見方を強め~」)
 ▽毎日新聞
元厚生次官宅連続襲撃」「中野でも妻が重傷」「宅配装った男に刺され」「警察庁『年金官僚』警備強化」
(本文中は「警視庁と埼玉県警は2人の次官が同じような経歴を持ち、手口も似ていることなどから関連があるとみて捜査~」)
 ▽読売新聞
元厚生次官宅連続テロ」「都内、妻刺され重傷」「さいたま夫婦刺殺」「共に元年金局長」
(本文中は「警察庁は~テロの可能性があるとみて」)
 ▽日経新聞
元厚生次官狙い連続襲撃か」「さいたまで夫婦刺殺」「東京・中野でも妻重傷」
(本文中は「警察庁は厚生次官経験者らを狙った連続テロ事件の可能性もあるとみて~」)
 ▽産経新聞
元厚生次官宅連続テロか」「埼玉で夫婦殺害 中野で妻重傷」「ともに年金ポスト経験」
(本文中は「警察庁は連続テロの可能性があるとみて~」)
 ▽東京新聞
元厚生次官宅連続テロか」「中野でも妻刺され重傷」「さいたまの夫妻殺害と断定」「警察当局、関連を捜査」
(本文中は「警察庁は元厚生官僚を狙った連続テロの可能性もあるとみている」)

 独自のニュースバリュー(価値)判断を身上とする新聞にとって、第一面のトップ記事の見出しは言ってみればメディアとしての「命」のようなものです。その見出しを比べると、毎日と日経が「テロ」を使っていないのが目を引きます。毎日は一面の本記本文のリード中にも使っていません(社会面には「年金テロなのか」の大見出し)。一方、「テロ」を使用した4紙の中で朝日、産経、東京の見出しはいずれも「連続テロか」と、断定は避けた表現なのに対し、読売だけは「連続テロ」と言い切った表現です。本文中は「テロの可能性があるとみて」となっているのにです。「テロ」の強調度は読売>朝日、産経、東京>日経>毎日の順になります。
 続く19日付夕刊の一面では、見出しから「テロ」がなくなっているのが大勢を占める中で、読売新聞だけは事件名を示す3本目の見出しに「元厚生次官宅連続テロ」と取り、本文中にも「連続テロとみられる事件で」と朝刊の「可能性」から一歩進めた表現になっていました。ちなみに翌20日付朝刊一面では各紙とも見出し、本文とも「テロ」は消えました。
 各紙とも把握している情報はほぼ同一なのに、なぜこれだけの違いが出たのでしょうか。推測にすぎないのですが、毎日新聞や日経新聞では、編集部門で「テロ」の用語の定義づけに相当な議論が行われたのではないかと考えています。
 そもそも「テロ」の用語には、例えばウイキペディアの「テロリズム」の項をみても、一般に広い解釈の余地があるとの印象があり、何がテロなのかの定義づけ自体に政治的な意味合いが含まれることも指摘されています。18日夜の時点で、警察当局にとっては第3の事件を起こさせてなならないことが最重要であり、その観点からは政治的目的を持ったテロの可能性も想定しておかなければならなかったことは当然でしょう。警察当局のその想定に沿って、新聞などマスメディアがテロの可能性を報じることは必ずしも間違いではないし、警察当局が2件の事件の関連性をどうとらえているかということ自体、ニュースバリューはあります。
 しかし、一方で「テロ」という用語からイメージするものが人それぞれによって幅があることを踏まえるなら、警察当局が「テロ」という用語を使っているからといって安易に使わず、言葉を置き換えて報道することもまたジャーナリズムの見識ではないかと思います。用語の定義づけも定かではないままに安易な用法に流れることは、自覚しないままに当局側と同じものの見方に立ってしまう危険があるからです。
 「テロ」という用語は、外信部門では例えば米国の「テロとの戦い」、イラク情勢で「自爆テロ」などの用語が紙面に載っています。「テロとの戦い」は米国大統領が言い出したまさに政治的用法として、そのままに伝えることにも意義があると思いますが、イラクの米兵に対する「自爆テロ」は「自爆攻撃」と置き換えることも可能です。「テロ」を使うことで、知らず知らずのうちに米大統領と同じ価値判断に立ってしまう恐れはないでしょうか。アラブ情勢に詳しい記者からかつて聞いた話ですが、日本のマスメディアが「米兵にまたテロ」と伝えた同じ出来事を、アラブの反米系メディアは「抵抗勢力が連戦連勝」と伝えていたそうです。
 いずれにせよ、情報は言葉を介して伝わっていくものである以上、解釈に幅がある用語、それ自体に政治的意味合いを持つ用語などは、マスメディア内で用法を日常的に議論し、できれば可能な限りの定義づけや用法のガイドラインのようなものを情報の受け手(新聞ならば読者)に対して公開するスタンスもあっていいと思います。
 今回の事件の新聞各紙の報道に話を戻すと「どこそこの新聞はおかしい」という問題ではないと思いますが、事件を伝えるメインの記事の中で「テロ」の使用を限定的にした毎日新聞の見識は注目されていいと思います。
# by news-worker2 | 2008-11-25 01:09 | 新聞・マスメディア
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 労働争議を第三者の裁定に委ねようとする場合、行き先は大きく分けて裁判所と都道府県の労働委員会の二つがあります。裁判所の場合は、判決や決定に不服なら高裁などへ上訴する道があり、それと似て労働委員会にも、労働組合法に基づく国の行政委員会である中央労働委員会という上位裁定機関があります。中労委は使用者委員、労働者委員、交易委員の3者構成で各15人。少し前のことですが、その労働者委員に初めて連合(日本労働組合総連合会)以外から、全労連(全国労働組合総連合)出身の委員が16日付で選任されました。一般にはあまり注目されないニュースですが、わたしは労働運動の新しい機運を期待できる出来事として、好意的に受け止めています。
 労働運動のニュースをマスメディアの報道で見ていると「労働組合=連合」と受け止めてしまいかねないほど、労働側の動きと言えば連合ばかりが報道されています。日本のいわゆるナショナルセンターには、連合のほかにも全労連があるのですが、報道の上ではなかなか目にしません。厚生労働省の昨年6月現在の調査では、連合662万2千人、全労連68万4千人と、その組合員数には相当の差があることが主な理由と思います(少数意見にも光を当てるべき、との観点に立てば、いくら数に違いがあるとはいえ、現在のマスメディアの報道スタンスには問題があると考えていますが、ここではさて置きます)。別に労働組合の全国組織としては、国鉄労働組合(国労)などが加盟する全国労働組合連絡協議会(全労協)がありますが、ナショナルセンターとしてカウントされていません。このほか、連合、全労連のいずれにも加盟しない組合もあり、わたしが専従役員を務めた新聞労連もそうした「中立系」と呼ばれる産業別組合の一つです。 
 ここからはわたしの個人的な理解ですが、日本の労働組合運動は1980年代後半、連合と全労連の2ナショナルセンターへと再編が進む課程で、同じ産業内でも連合系、全労連系という風に産別組合が分かれていきました。分かれなかったところは連合、全労連の双方に入ろうにも入れない、どちらかに行こうとすると分裂するという状況でした。なので、もともと連合系と全労連系は仲がよくありません。労働界再編後の中労委員選任が連合独占で推移してきたのも、仮に労働行政当局が全労連系の委員を選任しようとしても、連合がそれを許さず(連合が労働行政に協力しない事態は、労働行政当局も避けたかったのだと思います)、結果として実現してこなかったのだろうと考えています。
 中労委員の連合独占に対し、全労連や中立系の労組、新聞労連も加盟する日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)は非連合系の委員選任を求めて共闘会議をつくり、統一候補を立てて推薦してきました。わたしもMIC議長として、この取り組みに参加していました。今回の非連合委員の誕生を、まずは素直に喜んでいます。同時に、そうした労働運動の潮流間の〝勢力争い〟の観点にとどまらず、労働運動に芽生えている新しい機運が育っていくことを期待できる出来事ではないかと考えています。その機運とは、働く者の権利の擁護のために潮流の違いを超えて共闘する、ということです。
 前回のエントリーでも触れましたが、ワーキングプアや貧困が社会問題化し、既存の労組とは一線を画した個人加盟ユニオンが立ち上がっています。その中で連合も全労連も、既存の労組間で縄張り争いに暮れている場合ではない、ということにとうに気付いています。実際のところ、わたし自身も争議の現場で、潮流の違いを超えて支援する、支援を受けるという体験をしましたし、既存の正社員労組が、非正規雇用の人たちと連帯・共闘を図る取り組みにも参加しました。そうした労働運動の中の新しい機運が、今回の中労委員選任にも反映されたのではないか。希望的観測に過ぎないかもしれませんが、わたしはそう受け止め、労働運動の今後に期待しています。
# by news-worker2 | 2008-11-21 01:05 | 労働運動