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「戦争はいらぬ、やれぬ」~朝日新聞むのたけじさんインタビュー記事

 少し時間が経ってしまいましたが、22日付の朝日新聞朝刊総合面(東京本社発行)の「あしたを考える」の欄「夏に語る」に、ジャーナリストむのたけじさんの長文のインタビュー記事が掲載されています。
 93歳のむのさんは1945年8月、新聞が戦争の実相を国民に伝えてこなかったことに責任を感じて朝日新聞社を退社し、その後、郷里の秋田県で週刊新聞「たいまつ」を創刊したことで知られます。略年譜を朝日新聞の記事より引用します。
1945年 8月、「負け戦を勝ち戦とだまして報道した責任をとる」と朝日新聞を退社。40年に報知新聞を経て朝日に入社し、中国特派員や東南アジア特派員などを歴任していた
1948年 郷里の秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊
1978年 780号をもって「たいまつ」休刊
2001年 たいまつ休刊後、農業問題を中心に各地を講演、その活動が評価され農民文化賞を受ける
2003年 秋田県湯沢市で「平和塾」を開講。「塾」は05年まで続いた

 あの戦争を新聞記者として体験し、戦後は商業新聞の外に身を置いて平和のための運動を続けてきた大先輩の数々の指摘は、わたしには厳しい叱咤のようにも、また励ましのようにも読み取れました。
 実は昨年10月、沖縄で開かれたある集会で、むのさんのお話を直接、聞く機会がありました。そのときのもようは後述します。まずは朝日の記事本文の書き出しを引用します。
 転換点は、あるのではなくて、自分でつくるのよ。それは12月8日。始まった日があるから原爆があって終わった日、8月15日がある。原因をつぶさなければ同じことが起きる。なぜあの日があったのか。その日の様子はどうだったのか。誰が仕組んだのか。国民の誰一人として相談受けなかったでしょ。
 朝日新聞も、真珠湾奇襲の大軍事行動を知らなかった。私は東京社会部で浦和(現さいたま市)に住んでいて、朝6時か7時か本社から電報が来たの。全社員に同じ文章。「直ちに出社せよ」だ。うんと寒かったな。
 行ってみたら戦争が始まったって。編集局みんなショック受けちゃって。だれも物言えなかった。異様な沈黙でしたよ。最初は「戦争状態に入った」。しばらくして「真珠湾で軍艦やっつけた」。そういう発表があったけど、万歳なんて喜ぶ馬鹿はいなかったな。通夜みたいな感じでした。何も知らないうちに始まったショックと、これからどうなるかという不安ですよ。
 そしてずるずると300万人の同胞を死なせ、2千万人の中国人を殺した。こんなことがあっていいのかと考えなきゃいかんでしょ。考えたらそうならないための365日の生活の中での戦いが必要だということになるんじゃないですか。

 自身の戦後と、現在の戦争と平和に対する考えについては次のように語っています。
 私は朝日を退社以来、戦争をなくすることに命をかけてきた。平和運動だ、抗議集会だと何千回もやったけど、一度も戦争をたくらむ勢力に有効な打撃を与えられなかった。軍需産業は成長しているんじゃないの。「戦争反対行動に参加した私は良心的だ」という自己満足運動だから。それでも意思表示をしないと権力は「民衆は反対していない」と勝手な判断をするからやめるわけにはいかない。
 でもそれだけじゃダメだ。今は「戦争はいらぬ、やれぬ」の二つの平和運動でないとならない、と怒鳴り声をあげている。
 「いらぬ」というのは、資本主義を否定すること。戦争は国家対国家、デモクラシー対ファッショなどあったが、今、根底にあるのは、人工的に起こす消費。これだけなんだ。作って売ってもうける。そこにある欲望が、戦争に拍車をかけてきた。
 無限の発展はいらない。当たり前の平凡な、モノ・カネ主義でない、腹八部目で我慢する生き方が必要なんです。地球の環境を大事にするとか、スローペースの生き方ですよ。
 そのことに一人一人が目覚め、生活の主人公になること。これが資本主義を否定する人間主義の生き方。戦争のたくらみをやめさせるのはこれなんだ。

 全文で170行以上の長大な記事ですが、従軍記者経験に基づいて「戦争には、弾丸の飛ぶ段階と飛ばない段階がある」と看破していることにも強い印象を受けました。朝日新聞のサイトにはアップされておらず、紙面を手に取るしかないようですが、現在のマスメディアの記者にぜひ読んでほしいと思います。

d0140015_1058151.jpg むのさんは昨年10月、沖縄で開催されたマスメディア労組主催の集会で基調講演をしました。当時、わたしは労働組合専従から復職して1年余の時期で、自身の仕事の意味や働き方を再確認しなければならない、との思いが日増しに強まっていました。むのさんが集会に参加することを聞き、たまらず週末の休みを利用して沖縄に行きました。少し長いのですが、以下に、わたしが当時所属していた労組の新聞研究活動の機関紙に投稿したレポートを再掲します。写真は沖縄の集会での、むのさんです。

 「戦争が始まってしまってから『ヒューマニズム』や『反戦平和』と言ってみても何の役にも立たない。戦争を止めようとするなら、やらせないことしかない」。むのたけじさん(92)は大きな声で切り出した。10月13日(土)、那覇市で開かれた沖縄県マスコミ労働組合協議会主催の2007反戦ティーチイン「戦争への道を止めるために―ジャーナリズムと労組の責任を考える」に参加した。むのさんは1945年8月、自らの戦争責任を明白にして朝日新聞社を退社し、戦後は郷里の秋田県・横手で週刊新聞「たいまつ」を刊行。今も反戦・平和に積極的に発言を続けている。今回は秋田から来訪し、「いい記事を書くために、生活の現場に心を砕き、自分の命を洗いながら、民衆の中に飛び込んでほしい」と後輩のわたしたちをも励ました。むのさんの基調講演を紹介する。
 沖縄マスコミ労協は、沖縄県内の新聞、放送の労働組合で結成。毎年10月を反戦月間と位置づけ、市民参加のティーチインを開催している。新聞労連や民放労連、出版労連が加盟する日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)が昨年から共催に名を連ね、平和と民主主義を守るための運動の一環として、広島や長崎とともに、地域のマスコミ共闘組織との連携・共闘の柱と位置づけている。ことしの沖縄の反戦ティーチインには、MICからの30数人を含め、組合員と市民計約200人が参加。14日付の沖縄タイムス、琉球新報両紙も社会面で紹介した。
 むのさんはまず「戦争を食い止めるために、ジャーナリズムと労働組合にも責任があることは明らかだ。しかし、今の日本のジャーナリズムと労組に第3次世界大戦を食い止められるか。今のままでは可能性はゼロだ」と言い切った。続けて「70数年間の経験から言うと、既に第3次大戦は始まってしまった」とも。「戦争を止める」ということについて、要点を3点に要約した。
 第1は、戦争が始まってしまってからでは、ヒューマニズムや反戦・平和と言ってみても何の役にも立たない、戦争を止めるなら「やらせない」ことしかない。第2は、戦場では相手を殺さなければ自分が殺される。この一事のために、全身が縛り付けられ、やがて人間は一個のけだものになってしまう。社会にも同じムードが漂う。武器を手にしていようがいまいが、戦争とは人がけだものになることであり、社会がそれを許すこと。第3は、戦争には2つの段階、すなわち銃砲弾が飛び交う段階と、その以前の段階との2つの段階があること。
 第3の点に関連して、むのさんは戦前戦中の自身の取材経験を話す。日本軍はインドネシア占領後、昭和17年3月に軍政を布告し、司令官が大東亜共栄を宣言した。しかしその宣言は一字一句、太平洋戦争開戦から1年半も前に準備されていたものだった。「戦争を企んでいた連中は、昭和15年のときから、あるいはもっと以前から準備を進めていた。弾が飛ばない前の段階で民衆を組織しないと、戦争は防げない」とむのさんは強調する。治安維持法をはじめとする統制で当時は縛られていたが、今は報道の自由があり、抵抗する権利があり、主権者は国民だと明白に憲法に書かれている。
 「最近は目が不自由になり、情報源はNHKのニュースだけ。しかし、そのNHKニュースだけ聞いていても、もはや第3次大戦は始まっている」。むのさんは、米陸軍第1軍団の神奈川移転計画が持ち上がったときが、その始まりだと指摘する。「第1軍団の任務地域は中国からインドにかけて。その司令部を米本土から現地に近い日本に移すということは、近い将来に中国からインドにかけての地域で米軍が軍事行動を想定しているということだ」。時に仲良く見せながら、戦うか否か、つばぜり合いが続く。これから3年―5年が、戦争を食い止められる最後のチャンスになるだろうと、むのさんは言う。
 では、どうやってその戦争を食い止めるのか。その一つの道として、むのさんはジャーナリストのヒューマニズムを挙げる。戦時中、多くの従軍記者が戦場に赴いたが、どんなに危機に陥っても、自分で銃を手に取ろうとした記者はいなかった。そこに、ヒューマニズムに根ざす近代の情報産業の命があるのではないか、とむのさん。「マスコミが本来のマスコミの姿で真実をはっきり暴き出し、民衆に伝えること。マスコミが本来の役割を果たせば、民衆が戦争を止めるエネルギーを作り出す」。
 「これは今日、ここにいる皆さんへのお願いだ」と、むのさんの声に一段と力がこもった。「何でもいい、明日からの自分を作る目標を持って欲しい。それをエネルギーに、現場の中で、労働者の連帯の中でがんばってほしい」。互いに意見をぶつけ合うことが必要だとも。戦時中は、職場でも2人では会話ができても、3人目が来ると皆口をつぐんだという。「だから観念論はあっても、戦争をやる人間を止められなかった」。
 新聞記者に対しては「生活の現場、人間の関係を密にすることに心を砕け」と訴える。「人間として自分の生活も大事にしながら、読者の中に入って学び、自分の命を洗いながら民衆の中に飛び込んで行くこと」。そうでなければ面白い記事は書けない、と言う。
 「観念論ではダメだ。労組も政党も数を頼るからダメだ。数だけ70万人集まっても、死を覚悟した7人の方が強い」。1人1人が自分を変えながら、人との結びつきを作っていくこと。「観念論を卒業して、新しい人類を作っていくためにがんばろうじゃないか」と、むのさんは講演を締めくくった。

 62年前に日本の敗戦で終わったあの戦争の時代を、新聞人として生きたむのさんの話を聞きながら「戦争で最初に犠牲になるのは真実」「戦争が起きた時点でジャーナリズムは一度敗北している」という有名な2つの言葉をあらためて思い起こした。あの時代、新聞産業は戦争遂行に加担した。むのさんは自らの戦争責任と向き合い新聞社の職場を去ったが、戦後の新聞の労働運動は「2度と戦争のためにペンをとらない、輪転機を回さない」が合言葉になった。あの時代を新聞人として生きた先輩たちの思いはみな一緒だったのだろうと思う。「もはや戦前」とも言われ、むのさんによれば「弾が飛ばない段階として、既に戦争は始まっている」という今、「観念論ではダメだ」というむのさんの言葉が胸に突き刺さる。
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by news-worker2 | 2008-08-24 11:02 | 憲法