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五・一五事件裁判長が遺した述懐~「前空幕長処分せず」で危惧されること

 前回のエントリーで取り上げた航空自衛隊の田母神俊雄・前航空幕僚長の侵略否定論文問題で3日、大きな動きがありました。3日夜、防衛省は田母神氏が定年退職となったことを公表。防衛省の説明では、空幕長の定年は62歳、空将の定年は60歳で、10月31日の解任の時点で既に定年でしたが、懲戒処分に備えた調査のために定年延長になっていました。しかし、田母神氏は調査に応じることを拒否し、辞職の意思も示さなかったため、定年延長を打ち切ったようです。
 田母神氏も3日夜、東京都内で記者会見し、「日本は侵略国家ではない」とあらためて自説を述べた上で「解任は断腸の思い」「私の解任で、自衛官の発言が困難になったり、議論が収縮したりするのではなく、むしろこれを契機に歴史認識と国家・国防のあり方について率直で活発な議論が巻き起こることを日本のために心から願っている」などと述べました。
 マスメディアの報道を総合して判断するに、防衛省は田母神氏をかばって定年退職としたわけではないようです。むしろ、政府見解を否定する内容の論文(「論文」と呼ぶにはあまりに稚拙な内容だと思いますが、それはさて置きます)を官職名を明らかにして発表したことに危機感を抱いていることがうかがえます。いわば、前空幕長に「迫力負け」したということなのでしょうか。わたしは、こと政治にかかわる事柄は、仮に個人的な見解であっても、武力を手にする自衛官が官職を伴った場で公に口にすることは厳に戒めなければならないと考えていますし、それは憲法が保障する「言論の自由」とは異質の、異なったレベルの問題だと思います。その意味で、今回の田母神氏の論文は明確に自衛官として守らなければならない一線を踏み外していますし、何としても懲戒処分が必要だったと思います。
 田母神氏への処分見送りで危惧されるのは、自衛隊内で田母神氏と同じ考え、歴史観を持つ自衛官らが何か考え違いをしかねないことです。田母神氏は空幕長という組織のトップとして論文を公表したので咎められた、一介の自衛官としての発言なら許される、問題にはならないのだ、という考え違いであり、「言論の自由」のはき違いと言っていいかもしれません。

 思い起こされるのは、戦前の軍人の暴走です。
 旧海軍の大将で、戦争中の1944年9月に病死した高須四郎という人がいました。米内光政や山本五十六ら、不戦海軍を信条としていたいわゆる「旧海軍左派」に連なるとされる提督です。高須大将が大佐の当時に、1932年に海軍士官らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件の軍法会議で、裁判長にあたる判士長を務めました。軍法会議は一人も死刑判決を出さずに終わりました。
 阿川弘之さんの小説「軍艦長門の生涯」に出てくる逸話(手持ちの本が見つからず、記憶に頼って書いているのですが大筋は間違っていないと思います)で、病床の高須大将が息子に五・一五事件の軍法会議を述懐する場面があります。高須大将は、五・一五事件の判決が実行犯たちに甘かったために後年の二・二六事件を招いた、との批判があることを苦にしていることを吐露し「もしあの時、死刑になる者が出ていれば、同じ思想を持った者が暴発していたかもしれない。それを防ぎたかった」という趣旨のことを息子に話した、そんな内容だったと記憶しています。この点、ウイキペデイアの「高須四郎」の記述では、「『死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ』と家族に胸中を吐露していた」となっています。わたしの記憶に誤りがあるかもしれませんが、いずれにせよ、五・一五事件で軍人たちの処断が甘かったことが後年の二・二六事件を誘発する一因になったとの指摘を、敗色が濃くなる中で死の床にあった高須大将自身が完全には否定しきれなかった(自分の判決が「間違っていた」とは思っていなかったにせよ)のではないかと、わたしは受け止めています。
 田母神氏の論文問題に話を戻すと、田母神氏を最優秀賞に選考したAPAグループ主催の懸賞論文には、ほかにも50人以上の自衛官が応募していたことも報道されています。田母神氏が空幕長職を解かれはしたものの、一自衛官としては何ら処分を受けることなく定年退職したことは、これらの自衛官にどう受け止められるでしょうか。あるいは、独自の思想を同じくする自衛官グループが組織化されていき、さらには外部の同じ思想グループと結び付いていったときに、自衛隊のシビリアンコントロールは守られるのか、軍事に対する政治の優位は保たれるのか。それらの将来への懸念を払拭するためにも、田母神氏への断固たる処分が必要だったのではないかと思います。しかし、その機会は失われてしまいました。
 禍根を残さないためには、防衛大をはじめとして自衛隊内部の教育態勢や、制服組の人事の検証と見直しが不可欠だと思います。それはジャーナリズムの課題でもあり、自衛隊の内部で何が起きているのかが、この国の主権者である国民に広く知られなければならないと思います。

 高須四郎大将のことをネットで検索していたら、牧師さんが運営しているブログ「ある教会の牧師室」のエントリー「大切な言葉が聞こえるか?」(2005年10月23日)に行き当たりました。「軍艦長門の生涯」の中の挿話ですが、すっかり忘れていました。田母神氏の論文問題をどう考えるかに際して、今日のわたしたちが知っていていい高須大将のもう一つの逸話だと思います。少し長いのですが、以下にエントリーの一部を引用して紹介します。
ところで、昨日も紹介した海軍大将高須四郎のもう一つの逸話が「軍艦長門の生涯」(阿川弘之著)の下巻267ページに紹介されています。彼は、昭和15年2月にある作戦室兼会合所が落成した折り、その建物の名前を考えてくれと頼まれ、「呼南閣」と名付けたそうです。

「長官、呼南閣とはどういう意味ですか?」と部下に問われると「それはね、南進論、南進論と、このごろ内地でやかましく言っているが、南方の資源が欲しくて、ただやみくもに南へ出ていくというのでは駄目だと私は思うのだ」「南方の人たちが、日本の徳望をしたって、向こうから自然に近づいて来る、日本人がもっと豊かな心を持って、南の人たちをこちらへ呼び寄せる、そうありたい。行くぞ行くぞと独りよがりの気勢をあげるより、おいでおいでの方がいいじゃないか。まあ、そんな気持ちでつけた名前だよ。甘い考えと笑われるかも知れないが、武威を以て南方を制圧しようとすれば、日本は必ずつまづくのではないだろうかね」

今、「侵略なんて無かった」と言っている人がたくさん居ます。しかし、当時の高須四郎のような人がこんな事を言っていたことを考えると、少なくても日本は、南進論という熱病に浮かされていたでしょうし、大東亜共栄の美辞麗句の裏で、資源を狙い、植民地を増やそうとしていたことだけは間違いがないようです。

by news-worker2 | 2008-11-05 02:26