ご訪問ありがとうございます。マスメディアの一角で働く美浦克教が「メディア」や「労働」を主なテーマに運営します。初めてお出での方はカテゴリ「管理人ごあいさつと自己紹介」をご覧ください。


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はてなダイアリーへ引っ越し準備中です

d0140015_1464464.jpg マスメディア、それも新聞産業の編集職場で働いていると、新聞記者が語るジャーナリズムは、「新聞」というマス媒体が今後も今までと同じようなマス媒体であり続けることが前提になっている、と感じます。「新聞が読まれなくなっている」こと自体は、最近では新聞社内で販売部門や広告部門だけでなく、編集部門の記者でもみな自覚しています。しかし「どういう風に読まれなくなっているか」となると、考えている人は意外と少ないのではないかと思います。新聞を手に取ってくれる人が減ってきていることは知っている。しかし「読者」と聞いて思い描くイメージは今までと変わらない「マスの人々」のまま。新聞記者の多くは、それが実状ではないか。日々、働いている中でのわたしの実感です。
 少しだけ具体的に言えば、新聞の作り手の側が考えるジャーナリズムでは「生活」とか「生活者」が大きなキーワードになっています。年金問題にしても、医師不足など医療問題にしても、あるいは米国発の金融・経済危機にしても、それをどう報道していくかというときに必ず「生活にどうかかわるか」「生活者の視線で」ということが重視されます。用語のバリエーションとしては「庶民」もこうした発想に含まれています。少し前に、新聞各紙がこぞってルポ風に取り上げた麻生首相のホテル・バー通いなどは、こうした発想がストレートに記事に反映された例と言っていいと思います。
 わたしは最近、そうした「読者=生活者=庶民=マスの人々」という新聞の作り手側の画一的とも言っていい発想に、違和感を抱くようになってきました。働き方一つを取っても、賃金労働者の3分の1以上を、派遣社員をはじめとする細切れ雇用の「非正規労働者」が占めるようになって久しいというのに、あたかも均一な「マス」が以前と同じように読者として記事を待っているかのような発想から抜け出ていないのではないか、という気がしています。ワーキングプアと呼ばれる貧困層にとって、朝夕刊セットで月々4000円近い大手紙の購読料は、それこそ「生活」防衛のためには真っ先に切り捨てられる項目でしょう。何の疑いもなく「夫婦と子ども2人の標準的な世帯の場合」といった例えが書かれている記事を、結婚したくともできない、子どもを産みたいと思っても産めない非正規雇用の若年層が読みたいと思うでしょうか。
 営業部門だけではなく編集部門の記者も、いや記者職こそ、「読者」を真剣に考えなければならないと思います。いったい、だれに読んでもらうために取材し記事を書くのか、ということです。そもそも取材にコストがかかることは、記者ならだれでも知っています。コストをかけて(何人もの記者を抱える人件費も含めて)丹念な取材ができることが新聞のジャーナリズムの特長である以上、そのコストをどうひねり出すかという問題は、一義的には経営の問題だとしても、今や「だれに何を読んでもらうのか、そしてだれから金をもらうのか」という意味で、編集のジャーナリズムも無関係ではありえません。新聞のジャーナリズムのどこがどう変わっていけばいいのか、答えはそんなに簡単には見いだせないと思いますが、議論と模索は必要です。
 前置きが長くなりましたが、そんなことを考えているときに時事通信編集委員の湯川鶴章さんの新著が刊行されました。一般にはタイトルからも内容の面でも、広告論として読まれているようですが、新聞をメインとする既存マスメディアの編集職場にいるわたしにとっては、新聞のジャーナリズムの今後を模索する上で示唆に富んだ一冊になりました。
 繰り返し登場するキーワードは漫画サザエさんに出てくる「三河屋さん」。磯野家の家族構成はもちろんのこと、しょう油1本にしても「そろそろ切れるころだ」と思ったら注文取りのときに「しょう油はどうしますか」と水を向け、波平さんの血圧が高ければ減塩の商品を奨める。例えればそんな情景で、顧客の嗜好・事情ごとにきめ細かく対応する情報サービスがデジタルの技術革新によって実現し、将来は広告のみならず消費行動そのものまで変わっていく、との指摘が、米国の最新事情の取材成果とともに示され、質の高いルポルタージュを読んでいるようなおもしろさに、知らず知らずのうちに引き込まれます。
 本書で直接、紹介されているのは広告ですが、これを記事(ニュース)の流れに置き換えればどうなるだろうか、ということを読んでいる最中から考えていました。新聞にしてもテレビにしても、ニュースは送り手側が「これがニュースだ」と判断したものを独自にパッケージにまとめて、マスの読者に向けて発信してきました。新聞社が自社サイトを設けてネット上でもニュースを発信するようになっても、根っこのところのニュースに対する考え方は変わりがありません。話をすっきりさせるために、新聞に限定して書いていきますが、新聞社からマス読者へ、「1対多数」の関係です。
 しかし、ネットとテクノロジーによって、まず広告が「1対多数」から「1対1」にシフトしていくのだとしたら、この先に何が起きるのでしょうか。新聞社の収益は大きく言えば広告料と購読料の2つです。新聞の広告媒体としての地位の低下と、販売部数の低迷が新聞社の経営を大きく揺さぶりつつあることは一般にも知られるようになっています。既に新聞社はどこも相当な金と人手をかけてネット展開に乗り出していますが、本気で新たな収益源の確保をネットに求めようとするなら、少なくとも画一的な「読者=生活者=庶民=マスの人々」を想定したような、従来のジャーナリズムだけでは太刀打ちできないと思います。マスの中の一人ひとりの「個」を見ながら「1対1」の関係を想定したジャーナリズムの可能性をいかに模索していくのか。情報の送り手と受け手の「1対1」の関係の集積としての「マス」、その意味でのマスメディアにどうやって自らを変えていくのか。当然、読者との間に双方向の関係もなければならないでしょうし、メディア内部での「個」の尊重という観点も重要です。要は、ジャーナリズムの中味も変わらなければ、新聞社は企業としても、ジャーナリズムとしても生き残れないのではないか。そこに経営者はもちろんのこと、一人ひとりの記者も気付くかどうかがポイントなのだという気がしています。
 湯川さんが本書を書かれた意図、訴えたかったことを正確にわたしが理解できているかどうかは心もとないのですが、以上が新聞記者の一人としてのわたしなりの読後感です。

 湯川さんには新聞労連の専従役員時代、労連の学習集会などで何度も講師をお願いしました。ネット社会をどう考えていけばいいのか、当時、湯川さんに教えていただいたことを一つひとつ思い出しながら、わたしの立場でわたしなりの実践を模索しています。本書も1人でも多くの新聞記者に読んでほしいと思います。
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by news-worker2 | 2008-11-30 13:53 | 読書
はてなダイアリーへ引っ越し準備中です

d0140015_162250100.jpg 書評と言うより、個人的な体験を重ね合わせた勝手な感想です。
 本書は、労働・雇用分野の社会的規制をめぐる流れが小泉政権時の規制緩和一辺倒から再規制へと転換しており、大きな転機は小泉元首相が退陣した2006年だったと指摘しています。厚生労働省官僚らによる「官の逆襲」の一面もあり、小泉「構造改革」の見直しと転換という側面と、政官財癒着構造の復活と既得権益の擁護という側面の二面性があることに注意を促しています。そうした指摘を踏まえた上ですが、わたしは「労働再規制」という今の流れを歓迎したいと思います。
 わたしは2回の労働組合専従役員の経験があります。最初は2001年から1年間、所属する企業の企業内労組でした。2回目は上部団体の産業別組合である新聞労連(日本新聞労働組合連合)で、2004年から2年間でした。わたしが労働組合専従を降りて、新聞産業の編集職場に復帰したちょうどそのころ、労働規制をめぐる動きに大きな転機があったことになります。
 新聞労連にいた当時のことで、思い起こすたびに今も切なさを覚えるいくつかのことがあります。そのうちの一つが、2005年の「郵政民営化」選挙です。公共サービスも例外を認めず市場競争に委ねることが、そこで働く人たちに過剰な負担と犠牲を強いることになるのではないか、との疑問をわたしは抱いていましたし、この流れが果てしなく進んでいったときに社会はどうなるのか、強い疑念も持っていました。労働分野の規制緩和が、新聞産業でも正社員から非正社員への置き換えを促進させていることに既に気付いていましたし、非正規雇用の人が理不尽に雇い止めに遭ったケースも見聞きしていました。争議支援にも加わっていました。だから、郵政民営化に反対する当該職場の労働組合の主張に、同じ労働組合運動に身を置く者としてシンパシーを持っていました。しかし、小泉首相の「労働組合は抵抗勢力」とのワンフレーズに、労働運動の側の声はかき消されていった観がありました。確かにわたしは規制緩和一辺倒の「構造改革」に「抵抗」する立場でした。自民党圧勝の結果をみながら、本当に切ない気持ちになりました。
 しかし、翌2006年8月の新聞労連役員退任・職場復帰のころには、社会の雰囲気も郵政選挙のころと変わってきた、との印象を持っていました。朝日新聞が先駆けた偽装請負告発のキャンペーン報道やNHKスペシャル「ワーキングプア」などによって、労働運動の内部では既に知られていた労働・雇用分野の「構造改革」のマイナス面が、かなり社会一般にも知られるようになっていました。また、既存の企業内労働組合とは一線を画した個人加盟のユニオンが次々と立ち上がり、独自の団体交渉や争議で、労働条件改善や企業に法令を順守させるなどの成果を挙げていました。そんな中でわたし自身は、正社員の仕事に就けないのも貧困状態に陥るのも、すべてを「自己責任」で片付けるわけにはいかないのではないか、と考えていましたし、既存の労働組合も企業内サークルに閉じこもるのではなく、個人加盟のユニオンなど、新しい労働運動の潮流とも連携していけるような自己変革を進めるべきだと考え、口にもしていました。
 その後の2年間余り、復職後は日常の雑事にかまけて、組合専従時代のようには労働・雇用分野の規制をめぐる議論を逐一フォローできずにいました。本書は、2006年以後に政策決定の流れが変化していった経緯を丹念に検証し、コンパクトにまとめており、頭の中を整理するのにとても役に立ちました。そして、3年前の郵政民営化選挙の当時と比べると、自分と同じ考え方の人が増えているのかもしれないと考えると、3年前から抱き続けている切なさの感情が、多少は軽くなったような気がします。
 本書は、労働組合の執行部に身を置き、自分たちの職場と仕事の今後を社会全体の変化と関連付けてどう考えていけばいいのか、運動方針を提起する立場の人には有意義な一冊だと思います。また、小泉元首相が政界引退を表明し、新自由主義の本家本元とも言うべき米国では大統領選でオバマ氏が圧勝した今、過去を振り返りつつ今後の社会のありようを考えて行くのにあたっても、有用な一冊だと思います。
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by news-worker2 | 2008-11-16 16:24 | 読書
d0140015_312379.jpg ベストセラーになって久しい小林多喜二の1929年の小説「蟹工船」を先日、新潮文庫版で買い求め、読みました。大学生のころに一度読んでおり、ストーリーはほぼ覚えていた通りでした。しかし読後感は大学生の当時とかなり違います。
 大学生当時の記憶はおぼろげなのですが、かつて日本にこんなことがあった時代があったのだと、歴史の一コマとして受け止めながらも、それ以上に思うところはありませんでした。もはや日本では、小林多喜二が描いたようなことは起こるまい、と漠然と考えていました。わたしは1979年に大学に入り83年に卒業したので、「蟹工船」を最初に読んだのはその間のいずれかの時期になるのですが、当時の日本社会は経済的には成長ムードが続いており、暴力と言えば権力によるものよりも、成田空港闘争など新左翼諸党派によるものや、それらの党派間のいわゆる内ゲバが大きなニュースとして受け止められていたように感じます。韓国で朴大統領が暗殺され、続いて光州事件が起きたことに大きな衝撃を受けたことが強く記憶に残っており、小林多喜二が虐殺されたことに対しても、日本でかつてあった事実であるということよりも、韓国で同じような弾圧が進行していることの方に強い印象を抱いていたと思います。
 あれから30年近くたち、個人的にも様々な経験を経て「蟹工船」を読み返してみて、今の読後感をひと言で表現すれば「高揚感」です。人が個々の存在を尊重されなくなったときに怒りが湧き、いくつもの怒りが集まり力となる、そういうことは現実に起こりうる、そのことを自分自身が理解できるという高揚感です。「蟹工船」で最後に組織的なストライキに至る労働者たちが感じたのと同種の怒りと、その怒りが行動へと収れんされていく運動を、わたし自身も労働組合の活動を通じて見聞きすることがあり、ささやかながら関与することもありました。一人ひとりは弱い存在でも、団結することで大きな力が生まれることを実感できた体験がありました。そのときに感じたのと同じ高揚感が残っています。
 一方で正直に告白すれば、高揚感があるということ自体を嫌悪する、そんな感情もあります。わたし自身の働き方は、期限の定めがなく、容易には解雇されない「正規雇用(正社員)」であり、長らく労働組合にも守られてきました。今なぜ「蟹工船」が読まれているのかと言えば、細切れの不安定な非正規雇用が若年層を中心に増大していることが大きな要因だと思います。あるいは名目上は「正社員」ではあっても、実態として働く者としての権利が守られていない「名ばかり正社員」もあります。自らの働き方を「蟹工船」の労働者たちと重ね合わせている人たちがいることに思い至るとき、では自分は何ほどのことをしてきたのか、と自問せずにはいられません。働く者の権利を守るために行動した経験ばかりではなく、動こうとしながら何もできなかった苦い経験もあります。そして今もいったい何をしているのだろう、何もできていないではないか、と考えてしまいます。
 しかし、自己嫌悪はあるにしても、「蟹工船」を読んで気持ちに高ぶりを感じる、この高揚感も大事にしなければならないと考えています。そして今後も「働く」ことの意味、「個」が「個」として尊重されること、「個」と「個」がつながることの意味と方法を考えていきたいと思っています。

 10月23日の東京新聞夕刊の文化面に、作家辺見庸さんのエッセイ「SFとしての『蟹工船』」が掲載されています。共同通信が配信している連載「水の透視画法」のうちの1回です。「蟹工船」が今日ベストセラーになって久しい、その状況の辺見さんなりの受け止め方として、興味深く読みました。「蟹工船」を書き、「一九二八年三月十五日」を書いて権力を怒らせた小林多喜二が虐殺されたその状況は、現在ではありえないことと安心していていいのか。辺見さんはそんな問いかけをしていると受け止めています。
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by news-worker2 | 2008-10-26 03:13 | 読書
d0140015_9355841.jpg 著者は元毎日新聞社会部記者。ネット社会をめぐる数々のリポートや発言は、いつも参考になります。最近では、毎日新聞の英文サイトWaiWai問題で、CNET‐Japan上のブログ「ジャーナリストの視点」の「毎日新聞社内で何が起きているのか(上)」「同(下)」多くのブックマークを集め、話題になっています。
 本書ではそのWaiWai問題の考察も含めて、ネット上に出現した新しい言論の公共圏が日本社会に引き起こしている変化を描いています。中でも、WaiWai問題はライブドア事件と郵政解散・総選挙があった2005年以来のエポックメイキングな出来事であるとの指摘には、あらためてうなずきました。実は本書をこの欄で取り上げる意図も、この点にあります。
 日本の新聞社各社も昨今はインターネット展開に躍起ですが、編集の現場(つまり新聞記者です)に限っては、とりわけ40-50代の幹部クラスは十分なネットリテラシーを身に着けているとは言いがたいのが実情だと感じています。そうした層にこそ、まず本書を手に取ってほしいと思います。既存メディアに対する数々の指摘は、恐らくいちいちが腹立たしいことでしょう。しかし、その腹立たしさをひとまずは抑え込んで読み進んでほしいと思います。読み終えた後も怒りは収まらないかもしれません。読後感は人それぞれかもしれませんが、あらためて新聞や新聞社のジャーナリズムの今日的な意義を考えるきっかけになれば、そういう人が1人でも増えれば、その分だけ新聞ジャーナリズムは存在の意義を強めることができるのではないか。わたしは本書の意義をそんな風に考えています。 
 
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by news-worker2 | 2008-10-05 13:38 | 読書
d0140015_0151071.jpg 以前のエントリ「『戦争はいらぬ、やれぬ』~朝日新聞むのたけじさんインタビュー記事」で紹介した元朝日新聞記者でジャーナリストむのたけじさんの一問一答式の聞き書きが岩波新書で刊行されました。聞き手の黒岩さんは、むのさんより43歳年下のノンフィクション・ライター。本書の「まえがきにかえて」によると、1997年に初めてインタビューして以来の交友関係で、むのさんが以前、岩波新書を一冊書くと約束したまま果たせないでいることを知り、聞き書きの形を提案。本書の刊行となりました。
 敗戦から63年がたった今、あの戦争を新聞記者として体験し、戦後は戦争反対を貫いてきたむのさんの本書には、多くの価値があると思います。中でも第2章の「従軍記者としての戦争体験」は、インドネシアに従軍記者として派遣された際に見聞きしたことの証言であり、戦争の実相の記録としても貴重だと思います。ここでむのさんは次のように述べています。
 インドネシアでのいろいろな出来事は、『たいまつ十六年』に書いていますが、今回は、これまで本でも、講演でもあまり言わなかったことを話しましょう。それは、本当の戦争とはどういうものか、ということです。


(続きます)
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by news-worker2 | 2008-09-22 00:30 | 読書
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 賃金が生活保護水準を下回るような「ワーキングプア」や「偽装請負」、「名ばかり管理職」など、働き方、働かされ方をめぐる話題が最近は報道でも目につくようになっています。本書は、実例に基づいたその現場の実態のリポートです。同時に、労働者の権利や労働組合運動の意義についても深く考えさせられる1冊です。

 著者は労働事件を豊富に手掛けている弁護士。取り上げているのは8つの事例で、いずれも著者が実際に担当したケースばかりです。著者自身による内容の紹介(NPJ=News for the People in Japanより)を引用します。


 私がこれまで担当してきた事件を素材に、実践的に労働法の内容を解説すると共に、たたかうこと、労働組合への団結の重要性、それをてこに政治を変えることの重要性を書いた書籍です。
 名ばかり管理職と残業代、賃金の一方的切り下げ、パワハラ、解雇、雇い止め、派遣労働者の解雇、整理解雇、そして労働組合のたたかい。弁護士が関わる労働事件については、分野の多くを紹介できたのではないかなと思います。また、それらの事件に関わる法令については、ひととおりの説明を加えるのはもちろん、最新情報として、労働契約法、労働審判法の情報も盛り込みました。

 わたし自身が労働組合運動にかかわってきた経験から今も思うのは、「ワーキングプア」も「偽装請負」も、「名ばかり管理職」も、あるいはパワハラや理不尽な解雇、雇い止めにしても、働く者が無権利の状態に放置されていることにほかならないということです。働く者として当然に擁護されていなければならない権利がないがしろにされていることであり、著者はそうした状態も含めて「人が壊れてゆく」と表現しています。
 対使用者との関係では、労働者は圧倒的に弱い立場です。賃金や労働条件に不満や疑問があっても、一人では口にすることすらできません。そうすれば、たちまち仕事を失うことになりかねないからです。著者は法曹実務家として、法律の専門知識でもって、弱い立場の労働者の側に立ち、権利の擁護のために活動しています。本書はその記録です。
 一方で、弱い立場の労働者でも団結して声を合わせれば、使用者に対等の立場で対抗していくことができます。そこにこそ憲法28条が定める労働3権(団結権、交渉権、行動権)と労働組合の重要さがあると思います。憲法や労働諸法制が労働3権を保障していることは、労働組合それ自体が働く者の権利として保障されていることにほかなりません。一人では圧倒的に弱い立場にある労働者は、労働組合という権利を独力で手にすることもまた困難です。だからこそ、既存の労働組合が何をするのかが今日、問われているのだと思います。労働組合という「権利」を既に手にしている労働者が、未だその権利を手にできていない労働者と連帯し、権利を広め拡大していくことが、結局は自分たちの権利を守り抜くことにつながるのだと思います。
 労働組合が「権利」を口にするとき、往々にして「既得権にしがみつく利益団体」という批判を浴びます。今や「権利としての労働組合」の在り方を一から考え、模索し、行動すべきだと思います。企業内組合が企業内のサークル活動と化していないか、そんな反省に立つことが必要だと考えています。
  「名ばかり管理職」の問題にしても、「管理職」だから労働組合員ではありえない、ということに、今まであまりにも疑いを持たなすぎたのではないでしょうか。「管理職」と呼ばれる労働者としての労働組合運動が追求されていいと思います。本書を読んで、あらためてそんなことを強く感じました。
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by news-worker2 | 2008-09-11 02:00 | 読書
d0140015_19103025.jpg ことし4月に刊行されたときから早く読みたいと思いながら、先日ようやく読み終えました。著者の湯浅誠さんはNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長。研究者やジャーナリストとはまた違う視点から、ホームレスや生活困窮者の支援の具体的な実践を踏まえて書かれたリポートです。豊富な実例や統計データの精緻な分析が掲載されていますが、その紹介はここでは割愛し、わたしにとって印象深かった点をいくつか紹介したいと思います。

 第一は、貧困が社会の問題として見えていないとの指摘です。第3章「貧困は自己責任なのか」で著者は「貧困の実態を社会的に共有することは、しかし貧困問題にとって最も難しい。問題や実態がつかみにくいという『見えにくさ』こそが、貧困の最大の特徴だからだ」とした上で「姿が見えない、実態が見えない、そして問題が見えない。そのことが、自己責任論を許し、それゆえにより一層社会から貧困を見えにくくし、それがまた自己責任論を誘発する、という悪循環を生んでいる。貧困問題解決への第一歩は、貧困の姿・実態・問題を見えるようにし(可視化し)、この悪循環を断ち切ることに他ならない」と指摘しています。「本人の努力が足りないからだ」との「自己責任」の先入観がある限り貧困は可視化されない、という意味に受け止めています。
このことは、マスメディアの報道にもかかわってくる問題なのではないかと考えています。ここ2年ほどの間に、報道でも「ワーキングプア」という用語が定着し、「格差」が社会の問題として位置付けられるようになった観があります。しかし、知識として「ワーキングプア」や「格差社会」を意識しているつもりではいても、一歩踏み込んでマスメディアがどこまで「貧困」を社会問題として意識しているか。やはりマスメディアの側が自己責任論から完全には解き放たれていないのではないか。本書を読んで、そのことに思い至りました。

続きます
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by news-worker2 | 2008-08-15 02:20 | 読書
d0140015_042289.jpg 9条改憲、日米同盟、海外派遣、防衛庁から省への昇格など、戦後日本と平和をめぐって常に論議になる自衛隊ですが、海自イージス艦と漁船の衝突・沈没事故(ことし2月)のほか、陸自隊員による鹿児島のタクシー運転手刺殺事件(ことし4月)のように、最近では大きな不祥事も目立つようになっています。本書は、その自衛隊の中で何が起きているのかに迫った渾身のリポートです。
 本書はプロローグで、自衛隊の年間自殺者が最近では80―100人に達していることを紹介し、次いで、隊員の自殺をめぐって、護衛艦や部隊内で日常的に上官らのいじめがあったとして遺族が提訴しているケースや、部隊内での上官殺害事件、守るべき市民を隊員が襲った連続強姦事件、部隊内でのセクハラに続いて「悪いのはお前の方だ」と言わんばかりに上司から退職を強要された女性自衛官の裁判闘争などを取り上げています。裁判になったいじめ自殺やセクハラ被害は、マスメディアでも報道されていますが、本書はさらに遺族や支援者らに突っ込んで取材しています。
 わたし自身は、自ら命を絶った隊員たちが、他人の役に立ちたいと自衛隊を志願し、仕事に誇りを持っていながら、いじめやパワハラで追い詰められていったことが、遺族らへの取材で明らかにされていることが強く印象に残りました。自衛隊のイラク派遣に関連して名古屋高裁が出した違憲判断をめぐる以前のエントリ(「名古屋高裁判決についての航空幕僚長発言に感じる危うさ」)でも触れましたが、「組織と個人」という観点から見たとき、自衛隊員であることに誇りを持ちながら、その自衛隊という組織は個々の隊員を守ることができないのが実態ではないか、との読後感を持っています。軍事組織とはそういうものなのだとしたら、将来、仮に9条改憲で自衛隊が「軍隊」になったときどんな組織になっていくのか、いったい軍事組織は何のために存在するのか、危うさを感じます。
 著者の三宅勝久さんは元地方紙記者です。著書をめぐって名誉棄損を理由に、消費者金融「武富士」から起こされた巨額の損害賠償請求訴訟をたたかいぬいたフリーランスのジャーナリストです(新聞労連の委員長当時に、言論弾圧をテーマにした集会にパネラーとして参加していた三宅さんの話を聞く機会があり、そのときから尊敬の念を抱いています)。
 自衛隊をめぐっては、窃盗や飲酒運転などマスメディアが大きくは取り上げない不祥事も頻発しています。報道発表が部隊所在地の地元記者クラブに対してだけ行われ、結果としてその地域のローカルニュースとしてしか取り上げられないことも、三宅さんは自身のブログで明らかにしています。こうした自衛隊の情報コントロールに、多くの取材拠点を構え組織取材を身上としているはずのマスメディアは、いとも簡単に乗せられてしまっているのではないか…。自衛隊の在り方と同時に、マスメディアの権力監視の在り方もまた問われているのだと自戒しています。
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by news-worker2 | 2008-07-05 23:45 | 読書
 この数日、日本マクドナルドがいわゆる「名ばかり管理職」を見直し、店長にも残業代を支給すると発表したり(20日)、トヨタ自動車が「QCサークル」活動に残業代を支払うことを決めたと報じられたり(22日)と、正社員労働者の働き方、働かされ方をめぐる報道が相次いでいます。企業の労務管理のコンプライアンスをめぐる動きとしてわたしも注目していますが、例えば朝日新聞がマクドナルドについて「ただ、店長手当は打ち切り、支払う給与の総額は増やさないといい、待遇改善の効果は薄いとみられる」と書いているように、形を変えて賃金抑制や長時間労働が続くのではないかとの懸念も指摘されています。
 マクドナルドについての朝日新聞21日付朝刊記事を一部引用します。
 ハンバーガーチェーンの日本マクドナルドは20日、直営店の店長約2千人に、8月から残業代を支払うと発表した。権限が大きくないのに残業代が支払われない「名ばかり管理職」だと指摘されていたためだ。ただ、店長手当は打ち切り、支払う給与の総額は増やさないといい、待遇改善の効果は薄いとみられる。
 残業代を払うようにするのは、直営店の店長のほか、複数の拠点を管理する「エリア営業管理職」数百人。社内では管理職との位置づけは変えないが、法的には「経営者と一体的な立場」とされる「管理監督者」ではなくなる。上に立つ管理監督者は、「ディレクター・オブ・セールス(販売部長)」が務める。
 店長には、これまで基本給、成果給に加え、店長手当などの「職務給」があった。今回の制度変更で職務給がなくなり、代わりに残業代にあたる「時間外労務手当」を払う。残業代の支払い総額の見込みは示さなかったが、店長らへの給与の支払い総額は、いまと変わらないという。

d0140015_2393135.jpg 雇用の規制緩和で有期雇用や契約社員、派遣社員、パートなど細切れで不安定な働き方を強いられている非正規雇用が労働者の3分の1を占め、偽装請負などの違法な雇用やワーキングプアが社会問題になっている一方で、正社員という働き方、働かされ方も過酷になってきていると感じざるをえません。雇用や労働の現状を社会の問題としてどういうふうにとらえ理解し、今後のあるべき方向をどうやって探っていけばいいのか。その一助になるのが、弁護士の中野麻美さんの「労働ダンピング―雇用の多様化の果てに」(岩波新書)です。

(続きます)
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by news-worker2 | 2008-05-23 01:10 | 読書
d0140015_0175618.jpg 弁護士の日隅一雄さんから新著の「マスコミはなぜ『マスゴミ』と呼ばれるのか」を送っていただきました。日隅さん、ありがとうございました。
 何よりも、新聞と放送の2大マスメディアで働く第一線の記者にぜひ読んでほしい1冊です。本書は「権力に縛られたメディアのシステムを俯瞰する」との副題の通り、日本の新聞ジャーナリズムと放送ジャーナリズムが実は「新聞社」や「放送局」の会社ジャーナリズムであること、「新聞社」と「放送局」の在り方を決めている要因が読者や視聴者ではなく、国家権力(総務省による直接の電波管理行政に代表される)とメディア企業の資本持ち合い(クロスオーナーシップ)と広告業界(1業種1社制の不採用)の〝3点セット〟であることを、具体的に指摘しています。
 新聞社の記者であれば、新聞販売が独禁法の適用除外となっている再販制度や特殊指定のことはある程度は知っているでしょう。しかし、免許制の放送行政で、戦後間もなくは独立行政委員会が存在していたことを知っている記者は、経済部や文化部の一部の記者を除けば、どれぐらいいるでしょうか。逆に、放送局の記者の中で、新聞の戸別配達(宅配)のことを正確に理解している記者はどれぐらいいるでしょうか。クロスオーナーシップにしても、新聞社と放送局の系列関係は知識としては知っていても、それが「表現の自由」や「知る権利」とどのような関係にあるか、常日頃から念頭においている記者はどれぐらいいるでしょうか。
 マスメディアが身上としている組織ジャーナリズムは、一方で個々の記者が細かく担当分野別に分かれて日々取材している状況でもあります。政治部でも経済部でも社会部でも、特定の記者クラブに所属し、専門分野で日々取材に明け暮れし(そこでは他社との熾烈な「抜いた」「抜かれた」の競争があります)ていると、自分たちが身を置いているメディア界の全体状況や足元全体を見回す余裕はなくなります。わたし自身がそうでした。ましてやマスメディアの在り方を、そこで働く者同士の間で考え、広く議論する機会はなかなかありません。本書は、「表現の自由」や「知る権利」の観点に照らして、新聞や放送の「会社ジャーナリズム」が構造的に抱えているもろさや危うさを描き出していると言ってよく、まずは記者の一人一人が身の回りの現状を理解し、問題点を把握するのに役立つと思います。
 本書はさらに、会社ジャーナリズムの内側、メディア企業の中の諸問題にも切り込んでいきます。とりわけ編集権の所在について、もっぱら経営者に帰するとした日本新聞協会の「編集権声明」に疑問を投げ掛けている指摘は、メディア企業とそこで働く記者個人の内心の自由との関係で重要な論点だと感じました(「編集権声明」は1948年(60年も前の声明です)当時の文言のまま今日に至っているようです。日本新聞協会のホームページの「取材と報道」のページで読むことができます)。労働組合の形骸化の指摘に対しては、計3年間の専従活動を経験したわたしとしては切なさと若干の異論もあるのですが、基本的には返す言葉がありません。
 続いて本書は1990年代末以降のメディア規制立法の動きを追い、2010年に法案提出とされる「通信と放送の融合」がはらむメディア規制、表現規制の危険性を指摘し、最後に現状の改善への展望を示しています。
 繰り返しになりますが、1人でも多くの第一線で働く記者たちに読んでほしい1冊です。経営者にも本書の指摘を真摯に受け止めてほしいことは、言うまでもありません。
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by news-worker2 | 2008-05-07 00:12 | 読書