ご訪問ありがとうございます。マスメディアの一角で働く美浦克教が「メディア」や「労働」を主なテーマに運営します。初めてお出での方はカテゴリ「管理人ごあいさつと自己紹介」をご覧ください。


by news-worker2
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリ:非常勤講師( 8 )

 4月から務めていた明治学院大学社会学部の非常勤講師は、9月いっぱいで名実ともに終了しました。そのタイミングに合わせてでしょうか、きょう(10月1日)、授業の中で実施されていた「授業評価調査」の結果が郵送で届きました。
 これは、受講している学生にアンケート形式で授業に対する評価を提出してもらい、結果を授業の改善、向上に役立てるのが狙いで、いわば学生から教員への「通信簿」です。今ではだいたいどこの大学でも実施しているようです。
 設問は18あり5段階評価。通信簿を受け取るのは何十年ぶりでしょうか。少しどきまぎしましたが、うれしかったのは「この授業のテーマと内容についての関心は高まりましたか」「この授業から新しい知識が得られましたか」の2つの設問に、9割以上の学生が最高の「5」を付けてくれたことです。
 機会があれば、ぜひまた講師職にチャレンジしたいと思います。
[PR]
by news-worker2 | 2008-10-02 00:55 | 非常勤講師
 4月から続けていた明治学院大学社会学部の非常勤講師の講義が昨日(12日)で終わりました。「新聞ジャーナリズム」をテーマに計13回の講義でしたが、終わってみると「あっという間」だったというのが率直な印象です。
 以前のエントリ(カテゴリー「非常勤講師」)でも触れてきましたが、これまで主に「表現の自由」が新聞のジャーナリズムで実現されているか、新聞が「表現の自由」と「知る権利」を守ろうとしているかを中心に話してきました。昨日の講義のタイトルは総まとめとして「新聞は戦争を止められるか」としました。これまで25年間、新聞の仕事に携わってきたわたし自身の思いでもあります。
 日本社会の現代史は1945年8月の敗戦が大きな契機になっています。敗戦当時の新聞はと言えば、ひたすら戦意高揚のためだけの存在だったと言っていいと思います。その典型的な例として、45年3月10日に10万人以上が犠牲になった東京大空襲の報道を昨日の講義でもあらためて取り上げました。これもまた以前の講義で紹介したことですが「戦争で最初に犠牲になるのは真実」という言葉通りです。戦争をする国家は、実際に何が起きているのか、その実相のすべてを国民に明らかにはしません。その果てに何があるのか、わずか63年前に日本の社会で、わたしたちの父母や祖父母はそのことを身をもって経験したのだと思います。
 翻って今、わたしが暮らす日本の社会では、3つの流れが進んでいるとわたしなりに感じています。まず「戦争社会への道」。軍事面での日米の融合・一体化が進み、「日米同盟」という用語も何ら違和感なく新聞が用いています。自衛隊は米軍の支援のためにイラクやインド洋に派遣されており、より一体化を進めるために在日米軍の再編が進行中です。防衛庁は「省」に昇格し、自衛隊の海外派遣は本来任務のひとつと位置づけられました。有事法制も整備されています。改憲が加われば、名目上は国際協調のもとでの〝正義の戦争〟に限定されるにせよ、日本は法律面でも実体面でも戦争ができる国になるでしょう。
 2つ目は「監視社会への道」です。いわゆるビラまき逮捕事件の続発と有罪判決では、摘発されたビラまき行為はいずれも何がしか政治的主張を含むものでした。現在は表面的には沈静化しているものの、人間の内面を取り締まりと処罰の対象にすると言ってもいい「共謀罪」新設の動きもあります。最近では、恣意的な運用への危惧をぬぐいきれないインターネット規制の動きも加わってきました。
 3つ目は「格差社会への道」です。このことを強く意識し始めたのは新聞労連の専従役員の時期でしたが、今では「貧困」をキーワードに考えるべきなのかもしれません。
 「戦争社会」と「監視社会」と「格差(貧困)社会」の3つの流れは、相互に強い関連があると思います。貧困の拡大と戦争については、例えば堤未香さんの「ルポ 貧困大国アメリカ」に書かれている通りです。この3つの流れが一つになるとき、「表現の自由」と「知る権利」はどうなっているだろうかと考えると、わたしは「だからこそ、社会に『表現の自由』と『知る権利』が保障されていなければならない」と強く思います。新聞というマスメディアにジャーナリズムを生き続けさせようとするならば、3つの流れの中の一つ一つの出来事に「表現の自由」と「知る権利」の観点からこだわっていかなければならないと思います。新聞の使命は突き詰めれば社会の「表現の自由」を守り、「知る権利」に奉仕することであり、そうすることを通じて「戦争を止める」ことだと考えています。
 昨日の講義では、最近読んだアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義」(幾島幸子訳、水嶋一憲・市田良彦監修、NHKブックス)も紹介しました。わたしの理解が正しいかどうかの問題はさておいて、ネグリらの言うネットワーク権力の「帝国」の時代に、マスメディアは「帝国」の広報・宣伝機関になっていはしないだろうか、それで終わっていいのだろうか、ということを強く感じています。そのまま戦争報道が行われれば、かつての「大本営発表」報道と変わるものはないでしょう。マスメディアという組織に身を置くとしても、わたしという「個」は一人のworkerとして、ネットワーク権力に対抗して真の民主主義と平和を求める「マルチチュード」に連なっていきたい、希望のネットワークに連なっていることを実感することで、わたしの仕事である新聞のジャーナリズムにも希望を失わずにいたいと願っています。

d0140015_0151997.jpg 「『教える』は『学ぶ』に通じるから」と勧められ引き受けることにした講義でしたが、まさにその通りの得難い経験でした。大学の講義と呼ぶにはあまりに拙い内容でしたが、それでも学生たちの内面に何がしか新聞やマスメディア、さらには世の中のことに思うところが出てきたとすれば、こんなにうれしいことはありません。
 わたし自身は、多くの新聞が並び立ち、多種多様な情報が社会に発信されていること自体、価値があることだと考えています。マスメディアだけではなく、ネットでも自由な情報発信が保障されていることにもまた同じように価値があると思います。それぞれの「個」が多種多様の情報に触れ、一つ一つの情報の意味を読み解いていくリテラシーを高めれば、「個」と「個」がつながる希望のネットワークはさらに強まり、大きくなっていくと確信しています。

 *決して広くはありませんが、気持のいいキャンパスでした。記念に撮った1枚をここに残しておきます。
[PR]
by news-worker2 | 2008-07-14 00:20 | 非常勤講師
 明治学院大社会学部での講義はきのう(5日)、「ネット社会、多メディア社会と新聞ジャーナリズム」のテーマを終え、残すところ次回の1回だけとなりました。
 きのうの講義では、長年にわたって「部数第一主義」でやってきた新聞社のビジネスモデルは限界にきており、新たな収益モデルを模索する中で、各新聞社ともネット展開に力を入れてきていることや、そのことが新聞のジャーナリズムにどう影響するのかについて、わたしなりの考えを話しました。
 新聞社のビジネスと新聞のジャーナリズムはきちんと分けて論じないといけないのですが、まったく関係がない別々の問題というわけでもないと、わたしは考えています。新聞社がネット展開を強化していくことに異論はありませんが、ネットに踏み込む以上、新聞社のコンテンツといえどもネット空間では特別扱いというわけにはいかないと思います。具体的に言えば、新聞社の記事もネット空間では、例えば硫化水素の作り方を記した情報などと同列の存在であり、新聞社のサイトも例えば2ちゃんねると同列の存在です。それがネット空間での「平等」だと考えています。問題だと思うのは、そのことを新聞社の側がどこまで自覚できているか、です。そこに新聞のジャーナリズムにかかわる問題が出てくると思います。
 何度かこのブログでも触れてきましたが、例えば青少年の健全育成を目的にして、 「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」が6月11日に成立しました(法律全文は衆議院のホームページにあります)。携帯電話のフィルタリング機能をめぐって、何が有害情報に当たるのかの判断に国家が直接介入することは見送られましたが、それでも「違法」情報にとどまらず、「有害」情報を法に根拠を置いた規制の対象にする枠組みはできてしまいました。今後さらに、通信(ネット)と放送の一元規制がコンテンツ規制まで進めば、当然に新聞社のサイトも、新聞社がネット空間に発信している情報も規制の対象になります。規制の主体が現在の放送法と同じように国(総務省)になるのだとしたら、新聞ジャーナリズムが直接国の規制を受ける事態になります。そして「違法」にとどまらず「有害」な情報も規制の対象になるとしたら、本来あいまいな「有害」の線引きが恣意的に行われ、結果として新聞ジャーナリズムの表現の自由が制約を受けることになりかねない、そうわたしは危惧しています。
 翻って現在の新聞報道のネットに対するスタンスですが、時としてネガティブなとらえ方が前面に押し出されます。事件報道に顕著で、子どものいじめの舞台に学校裏サイトがある、犯罪被害に遭った少女が出会い系サイトで容疑者と知り合った、などのニュースは枚挙にいとまがないでしょう。それはそれで事件報道には必要な要素であり、社会に伝えなければならない情報ですが、ネットのそうしたネガティブな面だけが強調され続けると、国家によるネット規制論を呼び込むことになってしまう、そうなれば新聞は自らの首を絞めることになる、そのことをわたしは危惧しています。そうならないためには、新聞(この場合はビジネスの面もジャーナリズムの面も)の側がいかなる場面、局面でも「表現の自由」に徹底的にこだわること、その自覚と覚悟が問われてもいるのだと考えています。

 次回の講義は最終回として、4月から話してきたことの総まとめになります。春先に提出したシラバス(授業計画)ではテーマを「新聞は戦争を止められるか」にしました。講義を聴いてくれた学生の一人一人の頭の中に、何かひとつでも残るものがあるようにしたいと思います。
[PR]
by news-worker2 | 2008-07-07 00:16 | 非常勤講師
 4月から毎週土曜日の午前中に行っている明治学院大学社会学部での講義は昨日(6月21日)が10回目でした。開講した当初は長丁場をどう乗り切るか不安がありましたが、気付いてみれば残りはあと3回です。
 昨日からは「ネット社会、多メディア社会と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。
 日本の新聞は産業としてみれば、1980年代まで右肩上がりの成長を続けていました。ビジネスモデルとして見ると、まず読者からの購読料があり、次いで広告媒体としての広告料があります。新聞社と購読者の間には、新聞社ごとに系列化された販売店網があり、それが戸別配達と新たな購読者獲得を支えています。販売店には、折り込み広告(チラシ)という独自収入もあり、扱い部数が増えれば独自収入も増える仕組みです。このビジネスモデルを総体として見ると、発行部数が増えれば新聞社は購読料収入も広告料収入も増え、販売店も折り込み広告が増えることになります。必然的に、新聞社経営は「部数第一主義」となり、この経営方針が長らく続いてきました。そこから強引な勧誘方法が社会問題にもなっていたりしました。
 しかし近年、このビジネスモデルでは立ち行かないことがはっきりしてきています。要因としては部数の伸び悩み、あるいは広告媒体としての地位の低下があり、また販売店網の維持と密接にかかわる再販制度にも90年代半ば以降、たびたび見直し議論が浮上しています。ちなみに再販問題とは、「再販売価格維持制度」をめぐる問題です。商品の取引では通常、メーカーや卸から仕入れたものをいくらで消費者に販売(再販売)するかは小売業者の自由ですが、新聞は販売店(小売業者)の販売価格を新聞社(メーカー)が指定することができ、独禁法の適用除外商品になっています。
 この新聞経営のビジネスモデルにかげりが見え始め、やがて限界がはっきりし始めた時期は、ちょうど90年代半ば以降、インターネットが日本社会にも普及、発展していった時期と重なります。ネット上に流れているニュース記事はだれでも無料で読めるためか、新聞産業内には「新聞が売れなくなったのはネットのため」といった見方や、さらにはネット上の掲示板やブログなどの表現活動を「便所の落書き」などと見下す風潮が根強く残っていると感じています。一方で、新聞経営が従来のビジネスモデルのほかに収益モデルを見出す必要性に迫られているのも、今や明白ですし、この点については新聞産業の中でも共通認識になっていると思います。
 ネット社会と新聞、あるいは新聞ジャーナリズムを考える際には、わたしは「新聞経営」と「新聞ジャーナリズム」の2つの側面があると思っています。「企業としての新聞社」と「メディアとしての新聞」と言ってもいいかもしれません。この2つの混同は避けなければなりません。ジャーナリズムの面で言えば新聞の強みは「組織の取材力」だと思います。しかし「だから紙メディアの新聞のほうがネット言論よりもすぐれている」というものでもないですし、ネット上での収益を追求するあまりに組織取材がおかしくなるようでは本末転倒になってしまうとも思います。

 講義では以上の状況を前提として、 ネットと新聞ジャーナリズムについて話していくつもりですが、結論めいたことをあえて先に言うと、新聞(マスメディアと言い換えてもいいかもしれません)が伝えていないことも読者はネットで知っているのが今日の状況だということです。言い方を変えれば、今までは新聞が書かないことは、社会にとっては「なかったことと同じ」だったのかもしれませんが、今はそうではありません。新聞が書いてこなかったことを、ネットを通じて知っている人たちをも読者と想定して、さて新聞はこれから何をどのように書いていけばいいのかが問われているのだと考えています。 
 昨日の講義では、以前のエントリ「『何が起きたか』を伝えるのは誰か~秋葉原・無差別殺傷事件で思うこと」に沿って、秋葉原の無差別殺傷事件の現場で起きたことを題材に、新聞を含めたマスメディアのメディアとしての「正統性」が問われている状況を話しました。秋葉原の事件の現場で、携帯電話のカメラで写真を撮りながらも、救護活動に加わらなかった人が少なからずいたことに批判も出ていますが、その批判を、現場で取材活動を展開したマスメディアに当てはめた場合、マスメディアはきちんと答えられるのか。その「正統性」が問われているのだと思います。
 引き続き、ネット社会の中での新聞ジャーナリズムの在り方についてわたしなりの考えを整理しながら、次回以降の講義を進めていきたいと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-23 01:12 | 非常勤講師
 前回のエントリで取り上げたNHK番組改変訴訟の最高裁判決を、昨日(6月14日)の明治学院大社会学部での講義のテーマにしました。ここ2回は「表現規制と新聞ジャーナリズム」について話しており、昨日の講義は当初、個人情報保護法案の原案や人権擁護法案の中にマスメディアの取材・報道規制がどのように組み込まれていたのかを話すつもりでしたが、急きょ、予定を変更しました。このNHKの番組改変問題はマスメディアの「自己規制」という意味で「表現規制」と密接にかかわると考えたからです。
 講義では各紙ごとの判決報道のニュアンスの違いを説明しながら、前回のエントリで触れた「編集権」の2つの論点についてもわたしの考えを話しました。マスメディアが組織ジャーナリズムである以上、組織としての一貫性と統合性が問われるのは当然です。マスメディア組織外へ向かっての「編集権」が、外部から制約を受けることは原則としてあってはならないこととわたしも考えています。しかしマスメディアの組織内の問題として「編集権」を考えていくと、マスメディアの内部で働く記者個々の良心、内心の自由の問題に行き当たります。一般論として、「編集権を行使するものは経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる」(新聞協会の編集権声明=1948年)として、その編集権行使が権力監視に向けて働くのならともかく、権力におもねることに向けられるとしたら、マスメディア内部の個々の良心は組織の中で行き場を失ってしまうと思います。
 講義の後、学生の一人から感想を聞かせてもらいましたが、興味深く聞いてもらえたようで手ごたえを感じることができました。
 学生たちに話しながら、各紙の報道の見出しを比べるにしても社説、解説とともに本記記事(判決の内容を伝える基本的な記事で、各紙とも今回は一面に掲載しています)も並べた方が理解の助けになるかと思い、前回のエントリのその部分を以下にあらためて載せます。本記の見出しは一番大きな「主見出し」です。
【朝日】
本記:市民団体が逆転敗訴
解説:「期待と信頼」限定的に解釈
社説:勝訴で背負う自立の責任
【毎日】
本記:最高裁「期待権」認めず
解説:編集の自由、最大限に尊重
社説:報道の自由に重きを置いた
【読売】
本記:NHK逆転勝訴
解説:編集の自由尊重 「期待権」約束ある場合に限定
社説:「期待権」を退けた妥当な判決
【産経】
本記:最高裁逆転判決 原告の団体敗訴
解説:「報道の自由」に重き
社説:NHKと朝日は再検証を(「主張」)
【東京】
本記:NHKが逆転勝訴
解説:「政治家の影響」言及せず
社説:政治からも自由確保を

 講義テーマは次回から「ネット時代の新聞ジャーナリズム」に移る予定です。
 ところで、以前のエントリでは新聞は直接、法による取材・報道規制が問題になることがなかったと書きましたが、先日、メディア研究者らの勉強会に参加し、以外に知られていない直接の法規制が一つあることを知りました。検察審査会法の第44条です。
 第44条 検察審査員が会議の模様又は各員の意見若しくはその多少の数を漏らしたときは、1万円以下の罰金に処する。
2 前項の事項を新聞紙その他の出版物に掲載したときは、新聞紙に在つては編集人及び発行人を、その他の出版物に在つては著作者及び発行者を2万円以下の罰金に処する。

 会議の秘密は裁判員裁判でも論点の一つになっており、裁判員が秘密を漏らした場合の罰則規定は裁判員法第108条に設けられていますが、「新聞紙」「出版物」への罰則規定はありません。
 検察審査会法は1948年7月の法律です。漏らした検察審査員への刑罰よりも、掲載したメディア側の刑罰の方が重いのは興味深いと思います。おそらく敗戦後の占領下という時代背景があったのだと思いますが、機会があればこの規定が盛り込まれた経緯を調べてみたいと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-16 00:55 | 非常勤講師
 明治学院大学社会学部での非常勤講師の講義は、昨日(5月31日)から「表現規制と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。長らくの間、直接、法規制が問題になることがなかった新聞ジャーナリズムですが、この10年はさまざまな動きが相次いでいます。そのことを紹介し、その規制をはねつけ続けていくためには何が必要かを、わたし自身も考えていきたいと思っています。
 昨日の講義では「表現規制」という言葉の用法について説明しました。わたしが「表現規制」という用語で意味しているものには、新聞社や放送局、あるいは出版社や雑誌などの取材・報道活動を直接、法律による規制、制限の対象にする、ということも含んでいます。ですから人によっては、あるいは新聞や放送の報道でも多くの場合は「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいることが多いと思います。しかし、この呼び方では、新聞や放送など、既存のマスメディアさえ直接規制の対象から外れれば問題はない、というイメージを与えかねません。
 かつて2001―02年当時、個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を指して「メディア規制3法案」とマスメディア自身が呼んでいたことがありました。このうち唯一実現した個人情報保護法を見ても、新聞や放送の取材・報道行為は適用除外とされながらも、社会に(とりわけ公権力の側の不祥事情報の開示に)過剰な反応が広がり、結果として市民の「知る権利」が阻害される、という事態が現に進行しています。01―02年当時、新聞各紙は大々的な論陣を張り、新聞や放送の取材・報道活動を直接規制の対象から外すよう、自らの媒体を使って強く主張しました。そのこと自体にわたしは異論はないのですが、自らへの直接規制が外れた途端に、法案が抱えている問題点を検証し追及する姿勢が急速にしぼみ、そのことが今日の個人情報の過剰保護(とりわけ公権力による)を招いた一因になっている気がしてなりません。
 インターネットをはじめとして、社会の情報発信手段が多様化している今日、表現の自由はマスメディアだけの問題ではありません。むしろ公権力の側の方が、そういった情報発進の多様化には敏感になっていると感じます。新聞をはじめとしてマスメディアの側は、仮に自らが直接の規制対象として明示されていなくても、表現の自由への規制の動きには、今まで以上に、そして公権力の側以上に敏感にならなくてはならないと思います。放送と通信の一元規制化が現実のものになりつつある今、いつまでも「新聞はネットとは違う」「ネットに規制は必要だ」と考えているのだとしたら、いずれ自らの首を絞めることになりかねないことを危惧しています。
 以上のような考えから、わたしはマスメディアが「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいる表現活動の法規制の動きでも、あえて「表現規制」と呼ぶことにしています。

 講義ではまず、表現規制にかかわる現在進行の動きとして、裁判員制度と事件事故報道から話し始めました。だれが裁判員になるか分からない段階から、事件や事故の報道は始まっています。逮捕された容疑者について、読者や視聴者が報道によって予断や偏見を抱くことがあるとすれば、その読者や視聴者が仮に裁判員に選任された際に、公正な裁判が確保できるかどうかが危ぶまれるのは当然でしょう。事件事故報道が法によって規制されることがないようにするために、報道する側の姿勢が問われることになります。
 既にことし1月、新聞協会「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を公表し、新聞各社も近く、事件事故報道の一定の基準を策定する見通しです。表現規制に対して、新聞のジャーナリズムの問題としてどう考えていくのか、学生たちの理解の助けになるような講義にしていきたいと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-01 23:40 | 非常勤講師
 近況です。4月から毎週土曜日の午前、明治学院大学社会学部で、非常勤講師として新聞ジャーナリズムをテーマに講義をしています。きのう(24日)で6回が終わりました。
 講義では、新聞と「表現の自由」「知る権利」について、大きく3つの側面から取り上げる予定です。一つは自衛隊や在日米軍、イラク戦争など軍事報道、2つ目は個人情報保護法や人権保護法案などに代表される表現規制の立法化の動き、3つ目はインターネットなど他メディア社会の中での新聞ジャーナリズムです。
 きのうで「軍事報道と表現の自由」については区切りをつけました。ちょうど講義が始まるころ、名古屋高裁の自衛隊イラク派遣の違憲判断が示されたりして、実際の各紙の新聞紙面を手にしながら、自衛隊と軍隊とを問わず、軍事組織が必然的に帯びる秘密主義が、「表現の自由」や「知る権利」と直接、ぶつかっている現状を具体的に話しました。
 きのうは、中国潜水艦の火災事故を報じた読売新聞の情報源の幹部自衛官が、自衛隊法違反容疑でことし3月に書類送検された事件を取り上げました。この事件の特徴の一つは、情報を漏えいした自衛官だけが立件され、読売新聞の側は直接、捜査対象にならなかったことです。そのことをもって政府は「『報道の自由』や『知る権利』の侵害には当たらない」と強弁しましたが、問題は多々あります。こんな立件で有罪になるようなら、そしてこんなやり方が続くようなら、いかに公共性の高い情報であっても、だれも守秘義務に背いてまで記者やジャーナリストに伝えようとはしなくなるでしょう。そのことは軍事問題に限らず、内部告発を許さない社会へと進む危惧があります。その行く末に待っているのは、かつての大本営発表報道ということになりかねません。
 また、現憲法は軍事裁判所の設置を認めていませんが、仮に改憲で自衛隊の軍隊化とともに軍事裁判所が設置されれば、公共性いかんはまったく考慮されないまま形式的に「秘密の漏えい」の有無だけが審理される場となる可能性が高いと、わたしは考えています。そうなれば記者の側も無事ではすまなくなる恐れがあります。実際に、自民党が結党50年の2005年に策定した「新憲法草案」には、自衛隊を自衛軍に改変する事とともに、軍事裁判所を設置することが明記されています(ちなみに今回、講義に備えて自民党のサイトで以前はアップされていた草案を捜したのですが、見つかりませんでした。世論の改憲論議が冷めている中で、興味深い対応だと思います)。
 読売の中国潜水艦報道事件は現在進行形でもあり、検察庁が訴追するのか否かは、新聞のジャーナリズムに大きな影響があります。この事件について当の新聞は、ただ検察庁の動向を追う「落とし所報道」に終わることなく、社会的な議論の高まりに貢献すべく、多面、多角的な情報と意見を社会に提供し続ける責任を負っているはずだと考えています。

 さて、講義は次回からは表現規制に移りますが、やはり慣れないこととはいえ、消化不良の感は自分で否めません。当初は、昨年の共産党の内部資料公表で明らかになった陸自情報保全隊のイラク派遣をめぐる市民運動や取材活動に対する監視活動や、国民保護法の指定公共機関への放送メディア取り込みなどにも触れたかったのですが、時間が足りなくなってしまいました。
 非常勤講師の話を紹介してくれたのは新聞記者の仕事を退職後、大学教員に転じた方ですが、「わたしの体験から言っても『教えるは学ぶに通ず』だから。ぜひやってみてはどうか」と勧められました。「なるほど『教えるは学ぶに通ず』だな」と実感しています。自分では分かっているつもりでも、いざ、学生に話す、人に伝えるとなると、そうそう思った通りにはいきません。自分自身があらためて「学ぶ」つもりで、ポイントを押さえて要点をまとめておくことが重要だと痛感しています。次回以降は、きちんとしたレジュメを用意し、講義の進行管理を試みようと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-05-26 00:29 | 非常勤講師

講義が始まりました

 近況です。
 先週の土曜日の4月12日、非常勤講師として明治学院大学社会学部で、新聞ジャーナリズムをテーマに週1回の講義を始めました。7月いっぱいまで計13、4回の予定です。最初に話があった際には「とてもそんな能力はない」とお断りしたのですが、話を紹介していただいた方(この方も元新聞記者で現在は大学教員です)から「『教える』は『学ぶ』に通じるのだから」と言われ、引き受けることにしました。
 「新聞ジャーナリズム」というテーマそれ自体はざっくりとしていますが、「表現の自由」と「知る権利」が今の新聞ではどのように実現されているのか(あるいは実現されていないのか)を検証することを目標にしました。人は自分と異なった意見に接し、知らなかった事実を知って、考えや意見が変わることがあります。だから「表現の自由」は憲法にも明記されているし、「知る権利」も自由な表現に接する権利としての意味でも重要だとわたしは理解しています。
 今までは、主に労働運動の場で「表現の自由」と「知る権利」について考えたり発言したりしてきました。非常勤とはいえ大学教員として恥ずかしくないだけの講義ができるか、心もとないのですが、最低限、検証可能な根拠や論拠を示すことと、わたし個人の意見や考え方の押し付けにならないようにすることを心がけて、授業を進めていくつもりです。学生がそれぞれに「表現の自由」や「知る権利」について一つでも二つでも感じ取るものが残るような講義にしたいと考えています。

 
 
[PR]
by news-worker2 | 2008-04-13 15:17 | 非常勤講師