ご訪問ありがとうございます。マスメディアの一角で働く美浦克教が「メディア」や「労働」を主なテーマに運営します。初めてお出での方はカテゴリ「管理人ごあいさつと自己紹介」をご覧ください。


by news-worker2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

<   2008年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 毎日新聞社が27日、英文サイト「毎日デイリーニューズ」のコラム「WaiWai」に不適切な記事を掲載していたとして、担当記者らの処分を決めました。毎日.jpの告知記事を引用します。

 毎日新聞社:「WaiWai」問題で処分
 毎日新聞社は27日、英文サイト「毎日デイリーニューズ」上のコラム「WaiWai」に不適切な記事が掲載された問題で、コラムを担当していた英文毎日編集部記者を懲戒休職3カ月にした。また、監督責任を問い高橋弘司英文毎日編集部長を役職停止2カ月、当時のデジタルメディア局次長の磯野彰彦デジタルメディア局長を役職停止1カ月の懲戒処分とした。このほか、当時のデジタルメディア局長の長谷川篤取締役デジタルメディア担当が役員報酬の20%(1カ月)、当時の常務デジタルメディア担当の朝比奈豊社長が役員報酬10%(1カ月)を返上する処分とした。
 本社は、担当記者が国内の雑誌に掲載された風俗記事を英文サイトに引用する際、不適切な描写のまま英文に翻訳した結果、多くの読者に不快感を与え、インターネット上で批判を受けるなど信頼を損なったと判断した。上司については、記事のチェックを怠るなどの監督責任を問うた。WaiWaiは今月21日に閉鎖している。

 問題の経緯は、毎日新聞の告知記事では以下のようになっています。引用が多くなることは承知していますが、報道記事ではなく毎日新聞の見解ですし、正確性を期すためにそのまま引用します。

 「WaiWai」コラムの前身は1989年10月、紙の新聞の「毎日デイリーニューズ」上で連載を開始した。その後、紙の新聞の休刊に伴い、2001年4月19日からはウェブサイト上の「WaiWai」として再スタートした。
 英文毎日編集部に籍を置く日本在住の外国人記者と外部のライターが執筆し、日本国内で発行されている雑誌の記事の一部を引用しながら、社会や風俗の一端を英語で紹介した。どのような記事を選択するかは主に外国人記者が行った。
 5月下旬、過去の掲載記事について「内容が低俗すぎる」「日本人が海外で誤解される」などの指摘・批判が寄せられ、調査した結果、不適切な記事が判明し、削除した。それ以外の記事についてもアクセスできない措置を取り、チェックを続けていた。
 6月中旬、削除した記事がネット上で紹介され、改めて批判・抗議が寄せられた。
 さらに調べた結果、元記事にはない内容を記者が加えていたケースも1件確認された。品性を欠く情報発信となったことを反省し、全面的に閉鎖することにした。
 その後、今回の問題についての経緯とおわびを日本語と英語でウェブサイトに掲載。25日付朝刊本紙にもおわびを載せた。
 社内調査に対し、記者は「風俗の一端と考え、雑誌記事を引用し紹介したが、引用する記事の選択が不適切だった。申し訳なかった」と話している。同コラムの執筆を記者に委ね、編集部内での原稿のチェックが不十分で、編集部に対する上司の監督にも不備があった。


 さらに毎日新聞社は、今回の措置が妥当だったか、社外の有識者でつくる第三者委員会に見解を求めることも明らかにしています。いずれ第三者委員会の見解も紙面で明らかにされることと思います。
 今回の問題では、ネット上にまとめサイト「毎日新聞の英語版サイトがひどすぎる まとめ@wiki」などもあります。わたし自身は、6月20日にネット上のニュースサイト「JCASTニュース」が取り上げたことで知りました。実際にどんな記事がアップされていたのかを正確に知っているわけではないので、コラムの記事掲載の是非そのものに対する考えの表明は、ここでは差し控えたいと思います。毎日新聞社がコラムの閉鎖、担当者や上司の処分に踏み切るには、JCASTニュースの記事掲載が大きな契機になったのは間違いがないようですが、その間の経過、とりわけ毎日新聞社内の状況をうかがい知るにはあまりに情報が少ないので、毎日新聞社の判断の是非自体についても意見の表明は控えたいと思います。
 その上で、ということになりますが、わたしは今回の1件は、ネットと既存マスメディア(この場合は大手新聞社ということになると思いますが)の関係を考える上で後世にも記録される出来事の1つではないかと考えています。
 これまでも新聞社が取材・編集上の不祥事に対して、懲戒の内部処分を行うことはありましたが、大半は故意に記事や取材情報がねつ造されていたか、他者の記事を盗用していたケースでした。また、こうしたケースでは名誉を傷つけられたり、著作権を侵害される直接の被害者の個人や団体が存在することが多く、不祥事の発覚もそうした当事者からの通報が端緒になっていました。報道内容に明白な誤りがあり、関係当事者に謝罪や賠償が行われるケースでも、取材・報道の過程に故意や重大な過失がない限りは、懲戒処分にまでは至らないケースが多かったと思います。
 あらためて英文毎日サイトの今回の1件をみると、毎日新聞社は「担当記者が国内の雑誌に掲載された風俗記事を英文サイトに引用する際、不適切な描写のまま英文に翻訳した結果、多くの読者に不快感を与え、インターネット上で批判を受けるなど信頼を損なったと判断した」と説明しています。故意のねつ造や盗用ではなく、また事実関係の誤りがあったわけでもなく(経緯の報告では「元記事にはない内容を記者が加えていたケースも1件確認された」ともありますので、この点は毎日新聞社の最終的な調査結果を待ちたいと思いますが)、特定の個人、団体が具体的な被害を受けたわけでもないと、少なくとも毎日新聞社は現時点でそう判断していると読み取れます。強いて言えば、当該コラムの被害者は特定個人や団体ではなく不特定多数のネットユーザーであり、被害も個々の名誉棄損や著作権侵害ではなく不特定多数のネットユーザーの不快感ということになるのでしょうか。わたしは、今までの新聞社の不祥事と比べて、当の新聞社が不祥事と認定するに至った経緯も理由も、今までの不祥事とは相当に趣の異なるケースだと受け止めています。
 この1件をネットと既存マスメディアの関係でどう意味づければいいのか、わたし自身はまだ考えが整理できていませんが、キーワードの1つは「信頼」になるのではないかと思います。情報の信頼性を身上としてきた新聞社がネット展開していく際に何よりも重んじなければならず、かつまた事業としてもネット展開に展望を持てるかどうかを左右するのはやはり「信頼」なのだと思います。
 そもそも新聞本紙だったら週刊誌の風俗記事からの引用記事が掲載されることがあるだろうか、ということも考えています。新聞社の日本語サイトのコンテンツの中心は、本紙向けに取材し書かれた記事です。今回の1件が、紙としては発行を取りやめた英文サイトのコラムだったから起こってしまったことなのかどうか。いずれにせよ、毎日新聞社の第三者委員会の見解が明らかにされるのを待って、わたしも考えをまとめてみたいと思います。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-30 01:11 | 新聞・マスメディア
 4月から毎週土曜日の午前中に行っている明治学院大学社会学部での講義は昨日(6月21日)が10回目でした。開講した当初は長丁場をどう乗り切るか不安がありましたが、気付いてみれば残りはあと3回です。
 昨日からは「ネット社会、多メディア社会と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。
 日本の新聞は産業としてみれば、1980年代まで右肩上がりの成長を続けていました。ビジネスモデルとして見ると、まず読者からの購読料があり、次いで広告媒体としての広告料があります。新聞社と購読者の間には、新聞社ごとに系列化された販売店網があり、それが戸別配達と新たな購読者獲得を支えています。販売店には、折り込み広告(チラシ)という独自収入もあり、扱い部数が増えれば独自収入も増える仕組みです。このビジネスモデルを総体として見ると、発行部数が増えれば新聞社は購読料収入も広告料収入も増え、販売店も折り込み広告が増えることになります。必然的に、新聞社経営は「部数第一主義」となり、この経営方針が長らく続いてきました。そこから強引な勧誘方法が社会問題にもなっていたりしました。
 しかし近年、このビジネスモデルでは立ち行かないことがはっきりしてきています。要因としては部数の伸び悩み、あるいは広告媒体としての地位の低下があり、また販売店網の維持と密接にかかわる再販制度にも90年代半ば以降、たびたび見直し議論が浮上しています。ちなみに再販問題とは、「再販売価格維持制度」をめぐる問題です。商品の取引では通常、メーカーや卸から仕入れたものをいくらで消費者に販売(再販売)するかは小売業者の自由ですが、新聞は販売店(小売業者)の販売価格を新聞社(メーカー)が指定することができ、独禁法の適用除外商品になっています。
 この新聞経営のビジネスモデルにかげりが見え始め、やがて限界がはっきりし始めた時期は、ちょうど90年代半ば以降、インターネットが日本社会にも普及、発展していった時期と重なります。ネット上に流れているニュース記事はだれでも無料で読めるためか、新聞産業内には「新聞が売れなくなったのはネットのため」といった見方や、さらにはネット上の掲示板やブログなどの表現活動を「便所の落書き」などと見下す風潮が根強く残っていると感じています。一方で、新聞経営が従来のビジネスモデルのほかに収益モデルを見出す必要性に迫られているのも、今や明白ですし、この点については新聞産業の中でも共通認識になっていると思います。
 ネット社会と新聞、あるいは新聞ジャーナリズムを考える際には、わたしは「新聞経営」と「新聞ジャーナリズム」の2つの側面があると思っています。「企業としての新聞社」と「メディアとしての新聞」と言ってもいいかもしれません。この2つの混同は避けなければなりません。ジャーナリズムの面で言えば新聞の強みは「組織の取材力」だと思います。しかし「だから紙メディアの新聞のほうがネット言論よりもすぐれている」というものでもないですし、ネット上での収益を追求するあまりに組織取材がおかしくなるようでは本末転倒になってしまうとも思います。

 講義では以上の状況を前提として、 ネットと新聞ジャーナリズムについて話していくつもりですが、結論めいたことをあえて先に言うと、新聞(マスメディアと言い換えてもいいかもしれません)が伝えていないことも読者はネットで知っているのが今日の状況だということです。言い方を変えれば、今までは新聞が書かないことは、社会にとっては「なかったことと同じ」だったのかもしれませんが、今はそうではありません。新聞が書いてこなかったことを、ネットを通じて知っている人たちをも読者と想定して、さて新聞はこれから何をどのように書いていけばいいのかが問われているのだと考えています。 
 昨日の講義では、以前のエントリ「『何が起きたか』を伝えるのは誰か~秋葉原・無差別殺傷事件で思うこと」に沿って、秋葉原の無差別殺傷事件の現場で起きたことを題材に、新聞を含めたマスメディアのメディアとしての「正統性」が問われている状況を話しました。秋葉原の事件の現場で、携帯電話のカメラで写真を撮りながらも、救護活動に加わらなかった人が少なからずいたことに批判も出ていますが、その批判を、現場で取材活動を展開したマスメディアに当てはめた場合、マスメディアはきちんと答えられるのか。その「正統性」が問われているのだと思います。
 引き続き、ネット社会の中での新聞ジャーナリズムの在り方についてわたしなりの考えを整理しながら、次回以降の講義を進めていきたいと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-23 01:12 | 非常勤講師
 近況です。
 明日(19日)からわたし自身の働き方が変わります。わたしが所属している企業、そこでの仕事のことを書くのはこのブログの本旨ではないのですが、これまでお世話になりながら、日々の雑事にかまけてごあいさつをしていない方々も多く、この場を借りてご報告にかえさせていただきます。
 明日からは新聞労連の組合員ではなくなります。既存の労働組合運動との直接のかかわりはなくなりますが、それでも今後も「働き方」、あるいは「組織と個人」「社会と個人」の問題を考えることは、わたし自身の大きなテーマだと思っています。
 「個」が「個」として尊重され、なおかつ誰に支配されるのでもない、誰を支配するのでもない、「個」と「個」がつながり結びついたネットワークが広がっていく先に、将来への希望が生まれてくるのだと思っています。このブログを始めたときに考えていたことに今も変わりはありません(エントリ「このブログについて」)。「あなたは一人ではない」という言葉。この言葉を、それぞれの立場の違いを超えて一人一人が実感できるためにこそ、わたしが自分の仕事としている「伝えること」に意味があるのだと考えています。
 働き方は変わったとしても、明日からもマスメディアの一角できょうまでと同じように働いていくこと自体には変わりはありません。わたしはわたしの仕事を通じて希望のネットワークに連なっていきたいと思います。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-18 22:52 | 近況・雑事
 前回のエントリで取り上げたNHK番組改変訴訟の最高裁判決を、昨日(6月14日)の明治学院大社会学部での講義のテーマにしました。ここ2回は「表現規制と新聞ジャーナリズム」について話しており、昨日の講義は当初、個人情報保護法案の原案や人権擁護法案の中にマスメディアの取材・報道規制がどのように組み込まれていたのかを話すつもりでしたが、急きょ、予定を変更しました。このNHKの番組改変問題はマスメディアの「自己規制」という意味で「表現規制」と密接にかかわると考えたからです。
 講義では各紙ごとの判決報道のニュアンスの違いを説明しながら、前回のエントリで触れた「編集権」の2つの論点についてもわたしの考えを話しました。マスメディアが組織ジャーナリズムである以上、組織としての一貫性と統合性が問われるのは当然です。マスメディア組織外へ向かっての「編集権」が、外部から制約を受けることは原則としてあってはならないこととわたしも考えています。しかしマスメディアの組織内の問題として「編集権」を考えていくと、マスメディアの内部で働く記者個々の良心、内心の自由の問題に行き当たります。一般論として、「編集権を行使するものは経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる」(新聞協会の編集権声明=1948年)として、その編集権行使が権力監視に向けて働くのならともかく、権力におもねることに向けられるとしたら、マスメディア内部の個々の良心は組織の中で行き場を失ってしまうと思います。
 講義の後、学生の一人から感想を聞かせてもらいましたが、興味深く聞いてもらえたようで手ごたえを感じることができました。
 学生たちに話しながら、各紙の報道の見出しを比べるにしても社説、解説とともに本記記事(判決の内容を伝える基本的な記事で、各紙とも今回は一面に掲載しています)も並べた方が理解の助けになるかと思い、前回のエントリのその部分を以下にあらためて載せます。本記の見出しは一番大きな「主見出し」です。
【朝日】
本記:市民団体が逆転敗訴
解説:「期待と信頼」限定的に解釈
社説:勝訴で背負う自立の責任
【毎日】
本記:最高裁「期待権」認めず
解説:編集の自由、最大限に尊重
社説:報道の自由に重きを置いた
【読売】
本記:NHK逆転勝訴
解説:編集の自由尊重 「期待権」約束ある場合に限定
社説:「期待権」を退けた妥当な判決
【産経】
本記:最高裁逆転判決 原告の団体敗訴
解説:「報道の自由」に重き
社説:NHKと朝日は再検証を(「主張」)
【東京】
本記:NHKが逆転勝訴
解説:「政治家の影響」言及せず
社説:政治からも自由確保を

 講義テーマは次回から「ネット時代の新聞ジャーナリズム」に移る予定です。
 ところで、以前のエントリでは新聞は直接、法による取材・報道規制が問題になることがなかったと書きましたが、先日、メディア研究者らの勉強会に参加し、以外に知られていない直接の法規制が一つあることを知りました。検察審査会法の第44条です。
 第44条 検察審査員が会議の模様又は各員の意見若しくはその多少の数を漏らしたときは、1万円以下の罰金に処する。
2 前項の事項を新聞紙その他の出版物に掲載したときは、新聞紙に在つては編集人及び発行人を、その他の出版物に在つては著作者及び発行者を2万円以下の罰金に処する。

 会議の秘密は裁判員裁判でも論点の一つになっており、裁判員が秘密を漏らした場合の罰則規定は裁判員法第108条に設けられていますが、「新聞紙」「出版物」への罰則規定はありません。
 検察審査会法は1948年7月の法律です。漏らした検察審査員への刑罰よりも、掲載したメディア側の刑罰の方が重いのは興味深いと思います。おそらく敗戦後の占領下という時代背景があったのだと思いますが、機会があればこの規定が盛り込まれた経緯を調べてみたいと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-16 00:55 | 非常勤講師
 NHKが2001年1月に放送した「ETV2001 問われる戦時性暴力」が放送直前に改変された問題で、番組の取材に協力した「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」(バウネット・ジャパン)が、当初受けた説明とは異なる内容で放送されたとして、NHKと制作会社2社に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷が6月12日、原告の請求を棄却するNHK側の逆転勝訴判決を言い渡しました(判例検索システム)。
 争点は、取材を受けた側が、番組内容に抱いた期待が「期待権」として法律上の保護対象になるかどうかでした。また、この番組をめぐっては、改変に際してNHK幹部に当時の安倍晋三官房副長官(後の首相)らから圧力が加えられたと朝日新聞が報じた経緯もあり、その点も争点焦点になっていました。
 結果から言えば、最高裁は取材を受ける側の「期待権」は原則として法的な保護の対象にはならないとの判断を示しました。二点目も、安倍氏がNHK幹部に「従軍慰安婦問題について持論を展開した上、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」ことは認定しながらも、それがNHK幹部らにどう受け止められたかなどの判断は示しませんでした。
 「報道の自由」に直結するテーマが争点になっていたことから、13日付の新聞各紙朝刊もこの判決を大きく報じました。朝日、毎日、読売、産経、東京各紙の東京都内の最終版をチェックしたところでは、おおむね「報道の自由を尊重した判断」と受け止めている点は各紙共通です。その上で、社説や解説に各紙それぞれのニュアンスの違いが表れています。見出しだけを以下に列挙します。
【朝日】
解説:「期待と信頼」限定的に解釈
社説:勝訴で背負う自立の責任
【毎日】
解説:編集の自由、最大限に尊重
社説:報道の自由に重きを置いた
【読売】
解説:編集の自由尊重 「期待権」約束ある場合に限定
社説:「期待権」を退けた妥当な判決
【産経】
解説:「報道の自由」に重き
社説:NHKと朝日は再検証を(「主張」)
【東京】
解説:「政治家の影響」言及せず
社説:政治からも自由確保を

 今回はNHKという放送法の適用を直接受けている放送マスメディアの問題で、新聞にもこの判例がただちに適用されるかどうかは検討の余地があると思いますが、そのことはさておくとするなら、わたしはマスメディアの「編集権」「編集の自由」にどのようなイメージを持つかによって、今回の最高裁判決の意味は立場によって、人それぞれによって変わってくるのではないかと考えています。
 「編集権」の帰属主体を、自己完結した存在としてのマスメディアに求めるならば、最高裁判決はまさにマスメディアの「報道の自由」を取材相手との関係で最大限尊重したものとして、高く評価することができるでしょう。一方で、ではマスメディアの中で「編集権」はどこに帰属するのか、と考えると、別の論点が浮上すると思います。
 NHKなど放送局も加盟している日本新聞協会には、1948年3月に出された「編集権声明」があります。この声明ではまず「新聞の自由は憲法により保障された権利であり、法律により禁じられている場合を除き一切の問題に関し公正な評論、事実に即する報道を行う自由である」とし、「1 編集権の内容」に続いて、以下のようにうたわれています。

2 編集権の行使者
 編集内容に対する最終的責任は経営、編集管理者に帰せられるものであるから、編集権を行使するものは経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる。新聞企業が法人組織の場合には取締役会、理事会などが経営管理者として編集権行使の主体となる。
3 編集権の確保
 新聞の経営、編集管理者は常時編集権確保に必要な手段を講ずると共に個人たると、団体たると、外部たると、内部たるとを問わずあらゆるものに対し編集権を守る義務がある。外部からの侵害に対してはあくまでこれを拒否する。また内部においても故意に報道、評論の真実公正および公表方法の適正を害しあるいは定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する。編集内容を理由として印刷、配布を妨害する行為は編集権の侵害である。

 今回のNHKの問題では、安倍氏らから圧力がかかりNHK内部で番組改変が上意下達で行われたとの趣旨の告発を取材担当者が行った経緯がありました。この点について、NHKが敗訴した2審東京高裁判決では、安倍氏との面談を経てNHK幹部がその意志を忖度して改変に動いたと認定されました。おそらく「内部においても~定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する」との方針の下で、改変が進んだのだろうとわたしは考えています。そうした「編集権の確保」の動機が政治への忖度だとしたら、編集権は公権力の監視のために行使されたのではなかったと言わざるを得ない、と思います。しかし、最高裁はそうした政治との間合いの脈絡でNHKの内部の事情を検証し、判断を示すことは避けてしまいました。
 新聞協会の声明が明示している通り、マスメディアの「報道の自由」の根底にある「編集権」には、対外的な側面と対内的な側面との2つの論点があります。わたしは、報道の自由をめぐって今回の最高裁判決が対外的な側面から積極判断を示したことは諒としつつ、対内的な側面では判断を示さなかったことに割り切れなさを感じています。マスメディアの在り方を考えるとき、今回の判決は手放しで評価できるものではないだろうと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-14 02:16 | 新聞・マスメディア
 「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律案」が6月11日、参議院でも可決され成立しました。
 「法」には制定と運用の2つの側面があります。運用のいかんによって、法は「個」の権利を擁護することもあれば、侵害することにもなると考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-12 09:03 | 表現の自由
 6月7日8日に起きた東京・秋葉原の無差別殺傷事件の報道がマスメディアで続いています。心が苦しくなる痛ましい事件であり、事件そのものに立ち入って論評するにはあまりに尚早だということは自覚しつつ、このブログの大きなテーマのひとつである「メディア」の観点から、現時点で考えていることをまとめてみます。
 以前にも紹介した元徳島新聞記者でブログ「ガ島通信」の藤代裕之さんが、日経ITPLUSのコラムで「秋葉原事件で融解した『野次馬』と『報道』の境界」と題した文章を書かれています。書き出しの部分を引用します。

 週末、秋葉原で起きた通り魔事件は大変痛ましいものだった。事件そのものだけでなく、犯人逮捕の瞬間を撮影したり、現場から「生中継」が行われたり、マスメディアよりも早く、詳細に、普通の人々によって事件が記録、発信されたことのインパクトも大きかった。
 ブログなどの登場によって「誰もがジャーナリスト化」したことは数年前から議論してきたが、変化の大きさや社会に与える意味は起きてみて初めてわかる。「野次馬」と「報道」の違いとは何か、マスメディアの正当性とは、メディア化した個人の倫理はどうあるべきなのか……。事件はさまざまな問題を浮き彫りにしている。

 同感です。
 事件では現場に居合わせた多くの人たちから、自らが目撃し体験した一次情報が社会に発信されました。象徴的なのは、容疑者が取り押さえられた瞬間をとらえた画像が、「提供写真」のクレジットとともに新聞のほぼ全紙の一面に掲載されたことでしょう。フィルムカメラの時代でも、事件や事故の現場に居合わせた人が撮っていた写真が紙面に掲載されることはありました。しかしカメラ付きの携帯電話が普及し、一枚の写真が赤外線転送でその場で次々に複製すらされる、あるいはメールに添付されて広がっていく、ブログでネット空間に発信されていく今日の状況は、その状況自体がある種の「メディア」になっていると思います。
 文字情報も同じに思えます。藤代さんが紹介しているブログのいくつかは、わたしもソーシャルブックマークなどを通じて読んでいました。ブログ「筆不精者の雑彙」の「秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録」には、たまたま友人とともに事件に遭遇した一部始終が、現場の略図とともに報告されています。その文面を目で追いながら、ふとその行為自体「これは新聞記者が目撃者を探して話を聞く取材の行為そのものだ」と思い至りました。
 既存マスメディアの事件事故報道は、当事者や目撃者に一人でも多く取材し、その証言を組み合わせて「何が起きたのか」を再現してきました。今もその取材・報道スタイルは変わりません。しかし今回の事件では、ネットとデジタル技術の普及によって、現場の再現はもはやマスメディアの組織取材のものだけではないことが明白になりました。そういう状況の中で、マスメディアがマスメディアであることの意味、負うべき責任(それは「表現の自由」と「知る権利」にかかわるものですが)とは何なのかが、わたしも含めてマスメディアの内部で働く一人一人に問われていると思います。その答えはわたし自身、必ずしも明確ではないのですが、ただ、ひとりの「個人」として相当な覚悟が必要だろうということだけは、おぼろげながら感じています。

 このブログのもう一つのテーマに掲げている「労働」との関係でも、この事件に多々思うところがあります。いずれ書いていきたいと思います。

 何回か書いてきた「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律案」ですが、今週中にも参院で可決成立と伝えられる中で、毎日新聞が10日付朝刊のメディア欄ほぼ一面を使って、「有害情報」規制に行政の介入を許しかねない状況に焦点を当てた特集記事を掲載しています。記者の署名入りのリポート、大型談話として全国高等学校PTA連合会会長の高橋正夫さん(見出しは「被害防ぐ教育が重要」)と慶応大教授の中村伊知哉さん(同「過剰反応を招くおそれ」)、有害情報を「例示」した部分の法律案の抜粋の構成です。
 秋葉原の事件でも、容疑者が頻繁に携帯電話の掲示板に書き込みをしていたことが大きく報じられています。ネット規制の動きが再び加速することが予想されます。

*追記(2008年6月11日午前8時40分)
 ドキュメンタリー作家の森達也さんは作家森巣博さんとの対談「ご臨終メディア」(2005年、集英社新書)のエピローグの中で、こう語っています。ほんの一部を引用します。

 メディアという仕事は、ほとんどが人の不幸をあげつらうことで成り立っている。不幸でなくても、聞かれたくないようなことまで取材しなければならない場合もあるし、取材方法だって家族には見られたくないようなことばかりしています。そしてその結果、常に誰かを傷つけることで成立しているんです。そのことに対する後ろめたさを持ったほうがいい。それだけは、絶対なくすべきではないと思っている。卑しい仕事なんです。その視点から、もう一度、メディアというこの重要なジャンルと、向き合うべきと思っています。

 この本を読んだ当時わたしは新聞労連の専従役員で、マスメディアの取材・報道の現場からは離れている時期でしたが、「後ろめたさ」「卑しい仕事」という言葉に、はっと胸を衝かれる思いがしました。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-11 00:38 | 新聞・マスメディア
 前回のエントリの続きになります。
 子どもの保護のためのインターネット規制法案が6日、衆議院で可決されました。事実上、審議なしの状態だったようです。参院でも同じように可決され、成立する見通しと伝えられています。「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律案」という名称です。新聞協会メディア開発委員会は同日、声明を発表しました。一部を引用します。

 有害情報かどうかの定義・判断については、憲法21条が保障する表現の自由の観点から、直接、間接を問わず国は関与すべきではない。「例示」といえども、有害情報がいったん法律で規定されれば、事実上の情報規制を招く根拠ともなりかねない。また、有害情報を実質的に判断するフィルタリング推進機関を国への「登録制」とすることについても、公的関与の余地を残す懸念がある。

 7日付朝刊の新聞各紙(東京都内版)の扱いですが、法案の衆院通過をごく短く伝え、新聞協会の声明も簡単に紹介したところが多い、との印象を持ちました。やはり既に〝落とし所〟は終わっており、相対的なニュースバリューは低い、という判断でしょうか。その中で、読売新聞が社説「有害情報から子どもを守れ」を掲載していること、毎日新聞が新聞協会の声明の全文を掲載(第3社会面に見出し3段)していることが目を引きました。
 新聞協会の声明は有害情報の「例示」が法案に盛り込まれていることに危惧を表明していますが、その声明を紹介している紙面には、法案の「例示」部分の紹介がありません(チェックした限りでは、読売新聞が4日付の朝刊で「法案の全文が判明」として概要を報じるなど、5日以前に紙面で紹介した例はあったようですが)。読者の側に立ってみると、新聞協会に「『例示』といえども、有害情報がいったん法律で規定されれば、事実上の情報規制を招く根拠ともなりかねない」と言われても、「例示」がどのような内容なのか分からないのでは、判断の材料としては不十分ではないでしょうか。原典を当たろうにも、週末の金曜日の6日に提案され即日可決されたためか、衆議院のホームページにも8日現在、法案全文は見当たりません。
 6日の動きについては、インターネット上のニュースサイトが一番詳しいようです(たとえばITmedia Newsの楠正憲さんの分析・解説記事)。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-09 01:22 | 表現の自由
 子どもの保護のためのインターネット規制法案をめぐって2日、衆院青少年問題特別委員会で与野党が基本合意したと伝えられています。3日の新聞朝刊各紙も一斉に報じました。共同通信の記事を一部引用します。
 インターネット上の有害情報から子どもを守るための法案化作業を進めている自民、公明、民主、共産の与野党4党による実務者協議は2日、有害情報の基準を策定したり判定したりする民間の第三者機関に国の関与を盛り込まないことで大筋合意した。
 ただ、有害サイトの閲覧を制限するフィルタリングのソフトウエアの普及啓発や調査研究などを行う民間団体は「総務省または経産省に登録することができる」とし、国のかかわりを一部残す形で決着した。
 各党は早急に党内調整を進め、法案の今国会中の成立を目指す。

 けさ(3日)、大手紙各紙の東京本社最終版で記事の扱いをチェックしてみました。
 【朝日】1面に本記3段(見出し、以下同じです)、政治面(6面)にサイド記事
 【毎日】1面に本記4段、総合面(2面)にサイド記事
 【読売】2面に本記2段
 【日経】経済面に本記5段、サイド記事3段、とはもの1段、図解
 【産経】1面に本記4段
 【東京】総合面(3面)に本記4段

 各紙とも①有害情報の基準づくりに国は関与せず民間にゆだねる②フィルタリング技術の向上に関しては民間団体の国への登録を認め、一部だが国の関与が残った―とし、サイド記事では、規制を実効あるものにするには民間の取り組みが焦点になるとして、民間や業界の動向を主に取り上げています。
 トーンとしては各紙ともおおむね、有害情報の基準づくりに国の関与が排除されることになった点を、「表現の自由」の観点からプラス評価しています。朝日や毎日が1面でかなり大きな扱いにしたことは、この問題はヤマを越えたと各紙が判断したことを反映していると言っていいのではないかと思います。
 わたし自身は、有害情報の基準を国(=公権力)が恣意的に策定する可能性が低くなったことには安堵していますが、ヤマを越えたのは「『子どもの保護』『青少年の健全育成』を大義名分にしたネット規制法案をめぐる国会での与野党協議」という枠の中だけだと考えています。今後もネットが絡んだ子ども間のいじめや、子どもが被害に遭う事件が起き、大きく報道されることになれば「やはりネット規制には政府の関与が必要だ」との主張が息を吹き返す余地は残っていると思います。これはマスメディア自身の問題でもあるでしょう。
 また、仮に穏当な内容でネット規制法が今国会で成立するとしても、そもそもフィルタリングは有害情報の遮断に万能ではないという意見もあれば、「官か民か」という二者択一ではなく、政府から独立した行政委員会で対応すべきとの考え方もあるでしょう。
 今回の「ネット規制法案の行方」という政治、経済報道の〝落とし所〟は3日の紙面で決着かもしれません。しかし、既存のマスメディアは今後も、「表現の自由」をどう守るのかを常に意識しながら、多面的な視点で多様な意見、考え方を社会に伝えていくことが必要だと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-04 01:12 | 表現の自由
 明治学院大学社会学部での非常勤講師の講義は、昨日(5月31日)から「表現規制と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。長らくの間、直接、法規制が問題になることがなかった新聞ジャーナリズムですが、この10年はさまざまな動きが相次いでいます。そのことを紹介し、その規制をはねつけ続けていくためには何が必要かを、わたし自身も考えていきたいと思っています。
 昨日の講義では「表現規制」という言葉の用法について説明しました。わたしが「表現規制」という用語で意味しているものには、新聞社や放送局、あるいは出版社や雑誌などの取材・報道活動を直接、法律による規制、制限の対象にする、ということも含んでいます。ですから人によっては、あるいは新聞や放送の報道でも多くの場合は「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいることが多いと思います。しかし、この呼び方では、新聞や放送など、既存のマスメディアさえ直接規制の対象から外れれば問題はない、というイメージを与えかねません。
 かつて2001―02年当時、個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を指して「メディア規制3法案」とマスメディア自身が呼んでいたことがありました。このうち唯一実現した個人情報保護法を見ても、新聞や放送の取材・報道行為は適用除外とされながらも、社会に(とりわけ公権力の側の不祥事情報の開示に)過剰な反応が広がり、結果として市民の「知る権利」が阻害される、という事態が現に進行しています。01―02年当時、新聞各紙は大々的な論陣を張り、新聞や放送の取材・報道活動を直接規制の対象から外すよう、自らの媒体を使って強く主張しました。そのこと自体にわたしは異論はないのですが、自らへの直接規制が外れた途端に、法案が抱えている問題点を検証し追及する姿勢が急速にしぼみ、そのことが今日の個人情報の過剰保護(とりわけ公権力による)を招いた一因になっている気がしてなりません。
 インターネットをはじめとして、社会の情報発信手段が多様化している今日、表現の自由はマスメディアだけの問題ではありません。むしろ公権力の側の方が、そういった情報発進の多様化には敏感になっていると感じます。新聞をはじめとしてマスメディアの側は、仮に自らが直接の規制対象として明示されていなくても、表現の自由への規制の動きには、今まで以上に、そして公権力の側以上に敏感にならなくてはならないと思います。放送と通信の一元規制化が現実のものになりつつある今、いつまでも「新聞はネットとは違う」「ネットに規制は必要だ」と考えているのだとしたら、いずれ自らの首を絞めることになりかねないことを危惧しています。
 以上のような考えから、わたしはマスメディアが「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいる表現活動の法規制の動きでも、あえて「表現規制」と呼ぶことにしています。

 講義ではまず、表現規制にかかわる現在進行の動きとして、裁判員制度と事件事故報道から話し始めました。だれが裁判員になるか分からない段階から、事件や事故の報道は始まっています。逮捕された容疑者について、読者や視聴者が報道によって予断や偏見を抱くことがあるとすれば、その読者や視聴者が仮に裁判員に選任された際に、公正な裁判が確保できるかどうかが危ぶまれるのは当然でしょう。事件事故報道が法によって規制されることがないようにするために、報道する側の姿勢が問われることになります。
 既にことし1月、新聞協会「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を公表し、新聞各社も近く、事件事故報道の一定の基準を策定する見通しです。表現規制に対して、新聞のジャーナリズムの問題としてどう考えていくのか、学生たちの理解の助けになるような講義にしていきたいと考えています。
[PR]
by news-worker2 | 2008-06-01 23:40 | 非常勤講師