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読書:「労働再規制―反転の構図を読みとく」(五十嵐仁 ちくま新書)_d0140015_162250100.jpg 書評と言うより、個人的な体験を重ね合わせた勝手な感想です。
 本書は、労働・雇用分野の社会的規制をめぐる流れが小泉政権時の規制緩和一辺倒から再規制へと転換しており、大きな転機は小泉元首相が退陣した2006年だったと指摘しています。厚生労働省官僚らによる「官の逆襲」の一面もあり、小泉「構造改革」の見直しと転換という側面と、政官財癒着構造の復活と既得権益の擁護という側面の二面性があることに注意を促しています。そうした指摘を踏まえた上ですが、わたしは「労働再規制」という今の流れを歓迎したいと思います。
 わたしは2回の労働組合専従役員の経験があります。最初は2001年から1年間、所属する企業の企業内労組でした。2回目は上部団体の産業別組合である新聞労連(日本新聞労働組合連合)で、2004年から2年間でした。わたしが労働組合専従を降りて、新聞産業の編集職場に復帰したちょうどそのころ、労働規制をめぐる動きに大きな転機があったことになります。
 新聞労連にいた当時のことで、思い起こすたびに今も切なさを覚えるいくつかのことがあります。そのうちの一つが、2005年の「郵政民営化」選挙です。公共サービスも例外を認めず市場競争に委ねることが、そこで働く人たちに過剰な負担と犠牲を強いることになるのではないか、との疑問をわたしは抱いていましたし、この流れが果てしなく進んでいったときに社会はどうなるのか、強い疑念も持っていました。労働分野の規制緩和が、新聞産業でも正社員から非正社員への置き換えを促進させていることに既に気付いていましたし、非正規雇用の人が理不尽に雇い止めに遭ったケースも見聞きしていました。争議支援にも加わっていました。だから、郵政民営化に反対する当該職場の労働組合の主張に、同じ労働組合運動に身を置く者としてシンパシーを持っていました。しかし、小泉首相の「労働組合は抵抗勢力」とのワンフレーズに、労働運動の側の声はかき消されていった観がありました。確かにわたしは規制緩和一辺倒の「構造改革」に「抵抗」する立場でした。自民党圧勝の結果をみながら、本当に切ない気持ちになりました。
 しかし、翌2006年8月の新聞労連役員退任・職場復帰のころには、社会の雰囲気も郵政選挙のころと変わってきた、との印象を持っていました。朝日新聞が先駆けた偽装請負告発のキャンペーン報道やNHKスペシャル「ワーキングプア」などによって、労働運動の内部では既に知られていた労働・雇用分野の「構造改革」のマイナス面が、かなり社会一般にも知られるようになっていました。また、既存の企業内労働組合とは一線を画した個人加盟のユニオンが次々と立ち上がり、独自の団体交渉や争議で、労働条件改善や企業に法令を順守させるなどの成果を挙げていました。そんな中でわたし自身は、正社員の仕事に就けないのも貧困状態に陥るのも、すべてを「自己責任」で片付けるわけにはいかないのではないか、と考えていましたし、既存の労働組合も企業内サークルに閉じこもるのではなく、個人加盟のユニオンなど、新しい労働運動の潮流とも連携していけるような自己変革を進めるべきだと考え、口にもしていました。
 その後の2年間余り、復職後は日常の雑事にかまけて、組合専従時代のようには労働・雇用分野の規制をめぐる議論を逐一フォローできずにいました。本書は、2006年以後に政策決定の流れが変化していった経緯を丹念に検証し、コンパクトにまとめており、頭の中を整理するのにとても役に立ちました。そして、3年前の郵政民営化選挙の当時と比べると、自分と同じ考え方の人が増えているのかもしれないと考えると、3年前から抱き続けている切なさの感情が、多少は軽くなったような気がします。
 本書は、労働組合の執行部に身を置き、自分たちの職場と仕事の今後を社会全体の変化と関連付けてどう考えていけばいいのか、運動方針を提起する立場の人には有意義な一冊だと思います。また、小泉元首相が政界引退を表明し、新自由主義の本家本元とも言うべき米国では大統領選でオバマ氏が圧勝した今、過去を振り返りつつ今後の社会のありようを考えて行くのにあたっても、有用な一冊だと思います。
# by news-worker2 | 2008-11-16 16:24 | 読書
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 新聞業界を就職先に考えている学生さんらへのお知らせです。
 全国の新聞社の労働組合でつくる新聞労連が、11月30日に東京で、12月6日に大阪で、新聞業界就職フォーラムを開催します。2010年春入社を目指す方々(10生)が主な対象です。
 以前のエントリー(お知らせ:9月に「マスコミ就職フォーラム」が開かれます)で紹介した出版や広告の労働組合との共催フォーラムの延長で、新聞業界に特化した内容です。今回のフォーラム自体は、新聞の仕事をビビッドに知ってもらい、職業選択の判断に役立ててもらうのが狙いです。採用試験対策のハウツーものではありませんが、参加すれば新聞社のデスククラスによる作文講座の応募資格もあるようです。
 詳しくはこちらへ。有料です。

 作文講座はわたしも新聞労連委員長の当時から講師を務めました。実践的な講習で、間違いなく文章を書く力がアップすると思います。仮に新聞以外の産業で働くとしても、「文章が書ける=伝えたいことを着実に伝えられる」能力は、様々に役に立つと思います。
# by news-worker2 | 2008-11-11 00:55 | 新聞・マスメディア
 お知らせです。
 本ブログを「はてなダイアリー」に引っ越すことにしました。
 新しいURLはhttp://d.hatena.ne.jp/news-worker/です。
 当面は準備期間として、エキサイトの本ブログを「主」、はてなを「従」としてエントリーを両方にアップしますが、はてなに習熟したところで、本ブログは更新を停止する予定です。準備期間中はコメント、トラックバックはどちらのブログでも結構ですが、はてなはコメント、トラックバックとも承認制です。
# by news-worker2 | 2008-11-09 01:47 | 近況・雑事

続・高須大将の述懐

 田母神俊雄・前航空幕僚長の侵略戦争否定発言をめぐって、前回のエントリー「五・一五事件裁判長が遺した述懐~『前空幕長処分せず』で危惧されること」で取り上げた阿川弘之「軍艦長門の生涯」に出てくる高須四郎大将の逸話について、エントリーでもご紹介したブログ「ある教会の牧師室」管理人のちばさんから、引用した該当部分の原文をメールでご教示いただきました。またわたしの引用の適否についても丁寧なご指摘をいただきました。
 前回のエントリーでわたしは「五・一五事件で軍人たちの処断が甘かったことが後年の二・二六事件を誘発する一因になったとの指摘を、敗色が濃くなる中で死の床にあった高須大将自身が完全には否定しきれなかった(自分の判決が「間違っていた」とは思っていなかったにせよ)のではないかと、わたしは受け止めています。」と書いたのですが、ちばさんにご教示いただいた原文では、高須大将は息子に、以下のように語っています。
「五・一五事件の処置が甘かったから、次に二・二六事件を誘発したと言う人があるが、それは時間の経過の上でそう見えるだけの話で、歴史を知らない人の言い草だと思う。海軍にかぎっては、あの判決のあと、青年将校の政治関与とか、暗殺事件とかいったものは一つもおこっていない。米内(光政)さんが大臣に、山本(五十六)さんが次官に坐って、非常にはっきりした強い態度を部内に示されたせいもあるけれども、海軍は分裂の方向から統一の方向へ向って行った」
「死刑にして国内だけで簡単におさまるものならいいが、そう行かない証拠に、二・二六事件の時は、あれだけ大勢の被告を銃殺しておきながら、陸軍はたちまち翌年、盧(※原文は草冠が付いている)溝橋でああいう暴発をしたじゃないか。謀略の手は、こちらの側からだけ動いたのではないかも知れないが、結局その後始末をつけようとして、日独伊三国同盟、仏印進駐、対米英開戦と、こんにちの事態まで追い込まれてしまった。満州事変以来の総決算がここまで来たんだよ。残念なことだ。五十六さんだけは、私のほんとうの気持ちを分かってくれていたように思うがね」

 田母神氏の論文問題に即して高須大将の述懐を考えるなら、今日の防衛省・自衛隊に、米内光政海軍大臣―山本五十六次官のような「非常にはっきりした強い態度」でシビリアンコントロールの理念を部内に示すような存在が必要なのだ、という気が今はしています。
 阿川弘之さんの作品群には、米内光政や山本五十六とともに、「最後の海軍大将」である井上成美とあわせて「提督3部作」と呼ばれる3作の評伝もあり、今日の自衛隊のあり方を考える上でも示唆に富むエピソードが豊富に収録されています。統帥権が独立していた当時でも「軍人が政治に関して外部で発言するのは大臣に限る」との姿勢を強く部内に示していた米内光政や山本五十六、井上成美らのエピソードは、強く印象に残るものですが、これらの評伝も手持ちの原本が見つからないので、ここでのこれ以上の紹介はやめます。

 田母神氏の問題をめぐってはその後、APAグループの懸賞論文に90人以上の自衛官の応募があり、中でも航空自衛隊小松基地の第6航空団所属の尉官、佐官が約60人と多かったことが明らかになっています。その小松基地では、田母神氏が6空団司令時代の1999年にAPAグループ代表の元谷外志雄氏らが中心になって、金沢市に「小松基地金沢友の会」をつくっていたことも明らかになりました。他の自衛官が応募した論文の内容は明らかではありませんが、田母神氏の問題は田母神氏1人の問題にとどまらないのかもしれません。
 わたし自身は、自衛官であってもどのような歴史観・思想を持っているかは基本的には個人の「内心の自由」に属するものの、それを自衛隊の外部に公表するとなると、「言論の自由」ではすまされない別の問題になる、と考えています。国家の暴力装置の一部である自衛官は、その職務について憲法と自衛隊法で文官の指揮監督下にあることが明記されています。ことが政治的議論に及ぶテーマについては、私見を一切口に出さない、出すなら制服を脱いでからにすべきでしょう。
 わたしは田母神氏が更迭はされたものの定年退職となったことについては、やはり何らかの人事上の処分が必要だった(懲戒免職かどうかは別として)と考えています。同時に、今後のこととして、シビリアンコントロールの徹底が必要だと思います。実態として徹底されることももちろん大切なのですが、その理念をどう自衛隊内部で教育していくかということも重要だと思います。現代の米内光政、現代の山本五十六はいないのでしょうか。
 
# by news-worker2 | 2008-11-08 23:44
 前回のエントリーで取り上げた航空自衛隊の田母神俊雄・前航空幕僚長の侵略否定論文問題で3日、大きな動きがありました。3日夜、防衛省は田母神氏が定年退職となったことを公表。防衛省の説明では、空幕長の定年は62歳、空将の定年は60歳で、10月31日の解任の時点で既に定年でしたが、懲戒処分に備えた調査のために定年延長になっていました。しかし、田母神氏は調査に応じることを拒否し、辞職の意思も示さなかったため、定年延長を打ち切ったようです。
 田母神氏も3日夜、東京都内で記者会見し、「日本は侵略国家ではない」とあらためて自説を述べた上で「解任は断腸の思い」「私の解任で、自衛官の発言が困難になったり、議論が収縮したりするのではなく、むしろこれを契機に歴史認識と国家・国防のあり方について率直で活発な議論が巻き起こることを日本のために心から願っている」などと述べました。
 マスメディアの報道を総合して判断するに、防衛省は田母神氏をかばって定年退職としたわけではないようです。むしろ、政府見解を否定する内容の論文(「論文」と呼ぶにはあまりに稚拙な内容だと思いますが、それはさて置きます)を官職名を明らかにして発表したことに危機感を抱いていることがうかがえます。いわば、前空幕長に「迫力負け」したということなのでしょうか。わたしは、こと政治にかかわる事柄は、仮に個人的な見解であっても、武力を手にする自衛官が官職を伴った場で公に口にすることは厳に戒めなければならないと考えていますし、それは憲法が保障する「言論の自由」とは異質の、異なったレベルの問題だと思います。その意味で、今回の田母神氏の論文は明確に自衛官として守らなければならない一線を踏み外していますし、何としても懲戒処分が必要だったと思います。
 田母神氏への処分見送りで危惧されるのは、自衛隊内で田母神氏と同じ考え、歴史観を持つ自衛官らが何か考え違いをしかねないことです。田母神氏は空幕長という組織のトップとして論文を公表したので咎められた、一介の自衛官としての発言なら許される、問題にはならないのだ、という考え違いであり、「言論の自由」のはき違いと言っていいかもしれません。

 思い起こされるのは、戦前の軍人の暴走です。
 旧海軍の大将で、戦争中の1944年9月に病死した高須四郎という人がいました。米内光政や山本五十六ら、不戦海軍を信条としていたいわゆる「旧海軍左派」に連なるとされる提督です。高須大将が大佐の当時に、1932年に海軍士官らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件の軍法会議で、裁判長にあたる判士長を務めました。軍法会議は一人も死刑判決を出さずに終わりました。
 阿川弘之さんの小説「軍艦長門の生涯」に出てくる逸話(手持ちの本が見つからず、記憶に頼って書いているのですが大筋は間違っていないと思います)で、病床の高須大将が息子に五・一五事件の軍法会議を述懐する場面があります。高須大将は、五・一五事件の判決が実行犯たちに甘かったために後年の二・二六事件を招いた、との批判があることを苦にしていることを吐露し「もしあの時、死刑になる者が出ていれば、同じ思想を持った者が暴発していたかもしれない。それを防ぎたかった」という趣旨のことを息子に話した、そんな内容だったと記憶しています。この点、ウイキペデイアの「高須四郎」の記述では、「『死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ』と家族に胸中を吐露していた」となっています。わたしの記憶に誤りがあるかもしれませんが、いずれにせよ、五・一五事件で軍人たちの処断が甘かったことが後年の二・二六事件を誘発する一因になったとの指摘を、敗色が濃くなる中で死の床にあった高須大将自身が完全には否定しきれなかった(自分の判決が「間違っていた」とは思っていなかったにせよ)のではないかと、わたしは受け止めています。
 田母神氏の論文問題に話を戻すと、田母神氏を最優秀賞に選考したAPAグループ主催の懸賞論文には、ほかにも50人以上の自衛官が応募していたことも報道されています。田母神氏が空幕長職を解かれはしたものの、一自衛官としては何ら処分を受けることなく定年退職したことは、これらの自衛官にどう受け止められるでしょうか。あるいは、独自の思想を同じくする自衛官グループが組織化されていき、さらには外部の同じ思想グループと結び付いていったときに、自衛隊のシビリアンコントロールは守られるのか、軍事に対する政治の優位は保たれるのか。それらの将来への懸念を払拭するためにも、田母神氏への断固たる処分が必要だったのではないかと思います。しかし、その機会は失われてしまいました。
 禍根を残さないためには、防衛大をはじめとして自衛隊内部の教育態勢や、制服組の人事の検証と見直しが不可欠だと思います。それはジャーナリズムの課題でもあり、自衛隊の内部で何が起きているのかが、この国の主権者である国民に広く知られなければならないと思います。

 高須四郎大将のことをネットで検索していたら、牧師さんが運営しているブログ「ある教会の牧師室」のエントリー「大切な言葉が聞こえるか?」(2005年10月23日)に行き当たりました。「軍艦長門の生涯」の中の挿話ですが、すっかり忘れていました。田母神氏の論文問題をどう考えるかに際して、今日のわたしたちが知っていていい高須大将のもう一つの逸話だと思います。少し長いのですが、以下にエントリーの一部を引用して紹介します。
ところで、昨日も紹介した海軍大将高須四郎のもう一つの逸話が「軍艦長門の生涯」(阿川弘之著)の下巻267ページに紹介されています。彼は、昭和15年2月にある作戦室兼会合所が落成した折り、その建物の名前を考えてくれと頼まれ、「呼南閣」と名付けたそうです。

「長官、呼南閣とはどういう意味ですか?」と部下に問われると「それはね、南進論、南進論と、このごろ内地でやかましく言っているが、南方の資源が欲しくて、ただやみくもに南へ出ていくというのでは駄目だと私は思うのだ」「南方の人たちが、日本の徳望をしたって、向こうから自然に近づいて来る、日本人がもっと豊かな心を持って、南の人たちをこちらへ呼び寄せる、そうありたい。行くぞ行くぞと独りよがりの気勢をあげるより、おいでおいでの方がいいじゃないか。まあ、そんな気持ちでつけた名前だよ。甘い考えと笑われるかも知れないが、武威を以て南方を制圧しようとすれば、日本は必ずつまづくのではないだろうかね」

今、「侵略なんて無かった」と言っている人がたくさん居ます。しかし、当時の高須四郎のような人がこんな事を言っていたことを考えると、少なくても日本は、南進論という熱病に浮かされていたでしょうし、大東亜共栄の美辞麗句の裏で、資源を狙い、植民地を増やそうとしていたことだけは間違いがないようです。

# by news-worker2 | 2008-11-05 02:26