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d0140015_0151071.jpg 以前のエントリ「『戦争はいらぬ、やれぬ』~朝日新聞むのたけじさんインタビュー記事」で紹介した元朝日新聞記者でジャーナリストむのたけじさんの一問一答式の聞き書きが岩波新書で刊行されました。聞き手の黒岩さんは、むのさんより43歳年下のノンフィクション・ライター。本書の「まえがきにかえて」によると、1997年に初めてインタビューして以来の交友関係で、むのさんが以前、岩波新書を一冊書くと約束したまま果たせないでいることを知り、聞き書きの形を提案。本書の刊行となりました。
 敗戦から63年がたった今、あの戦争を新聞記者として体験し、戦後は戦争反対を貫いてきたむのさんの本書には、多くの価値があると思います。中でも第2章の「従軍記者としての戦争体験」は、インドネシアに従軍記者として派遣された際に見聞きしたことの証言であり、戦争の実相の記録としても貴重だと思います。ここでむのさんは次のように述べています。
 インドネシアでのいろいろな出来事は、『たいまつ十六年』に書いていますが、今回は、これまで本でも、講演でもあまり言わなかったことを話しましょう。それは、本当の戦争とはどういうものか、ということです。


(続きます)
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by news-worker2 | 2008-09-22 00:30 | 読書
 少し時間がたってしまいましたが、イラクへの自衛隊派遣をめぐって政府は9月11日、航空自衛隊の派遣部隊を年内にも撤収させる方針を正式に表明しました。それまでもマスメディアの報道などで伝えられていたことであり、撤収方針それ自体には大きな驚きはありませんでしたが、米英軍のイラク侵攻につながる2001年の米中枢同時テロからちょうど7年に当たる日、しかも自民党総裁選の真っ只中での正式表明には、わたしは現政権の意図的な思惑を感じずにはいられません。マスメディアの報道も一様に指摘していますが、名古屋高裁がことし4月17日、航空自衛隊の物資輸送活動を憲法9条違反などとする判断を示しました。そうしたこともあって、イラクへの自衛隊派遣継続を掲げていては自民党総裁選後に予想される衆院選に勝てない、と政権・与党が判断したと考えても、うがち過ぎではないだろうと思います。
 自衛隊の撤収自体には、わたしは個人的な考えとして異論はありません。問題は、派遣部隊の活動をめぐって、政府の具体的な情報開示が依然としてないことだと考えています。
 名古屋高裁判決は、自衛隊の空輸先に含まれているバグダッドが「戦闘地域」であること、その戦闘地域で戦闘に従事する武装兵員をも空輸していることを認定し、「違憲」判断を導きました。しかし、判決が確定して以降、今に至るまでも政府・防衛省は具体的にバグダッドへ何を運んだのか、情報開示をしていません。政府は様々なレベルで「違憲」への不快感を表明しましたが、本来ならば、情報を開示し是非を有権者の判断に委ねるのが民主主義のありようではないかと思います。3権分立の観点からみて、司法の指摘を行政が黙殺している現状で、では何が必要なのか。わたしは、その一つとして、自衛隊が実際に運んだもの、運んでいるものは何なのかを独自に検証して報道し、政府に情報公開を迫っていくジャーナリズムがあると思います。多大な困難はあろうとも、新聞をはじめマスメディアの組織ジャーナリズムがそれを成し遂げてこそ、権力の監視役に足りうるのだと思います。

 名古屋高裁判決の意味を広く社会に広めていこうと、訴訟の原告側弁護団が各地で報告会を開いていることを最近知りました。8月末現在で既に150回を超えたそうです。
 「自衛隊イラク派兵違憲判決~その後」(弁護団のホームページ)

 この取り組みを知って「訴訟は判決が確定したら終わり、ではない」ということに、あらためて気付かされました。訴訟を起こし、判決が出たらそれを社会に知らせてゆく、そのこと自体がひとつの「運動」なのだと思います。権力側の動向を情報として発信するのと同じように、そうした運動をも紹介していくこともマスメディアのジャーナリズムの責務だろうと考えています。

 イラクへの自衛隊派遣と名古屋高裁判決に関連したわたしの過去エントリを以下にまとめておきます(新着順です)。

近況:「軍事報道と表現の自由」の講義が終わりました
福島元判事の東京新聞インタビュー記事~憲法記念日と新聞、マスメディア
自衛隊イラク派遣の違憲判断が確定
名古屋高裁判決についての航空幕僚長発言に感じる危うさ
だれにも戦争協力拒否権がある~名古屋高裁の空自イラク派遣「違憲」判断に思うこと
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by news-worker2 | 2008-09-15 10:45 | 憲法
 福田首相が突然の退陣を表明した今月1日夜の記者会見で、最後に「首相の発言は他人事のように聞こえる」と質問した記者に「私は自分を客観的に見ることは出来るんです。あなたとは違うんです」と答えたことが、話題になっているようです。
 例えばJ-CASTニュースは「福田首相『あなたとは違う』発言 『流行語大賞候補』とネットで注目」と題して記事をアップしていますし、朝日新聞は3日付夕刊に関連記事を掲載しました。一部を引用します。
 福田首相は1日夜の辞任会見で「会見がひとごとのようだ」と記者から指摘され、「私は自分のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と気色ばんだ。この発言を巡る是非は、インターネットでも沸騰。掲示板では関連スレッド(書き込み群)が乱立し、ブログでも無数に取り上げられた。早くも「今年の流行語大賞に」と“期待”する声もある。

 福田首相のこの答弁を肯定的にみるか、否定的にみるかは人それぞれでしょうが、この答弁のもとになった質問をしたのは、在京の大手マスメディアの政治部記者ではありませんでした。質問をした中国新聞東京支社の道面雅量記者の署名記事をここで紹介し、記録にとどめておきたいと思います。

【記者手帳】首相の辞任会見に思う
 「総理の会見は国民には『人ごと』のように聞こえる。この辞任会見も」。一日夜、福田康夫首相の辞任会見で、そんな質問をぶつけた。首相は「私は自分を客観的に見ることができる。あなたとは違う」と気色ばんだ。生意気な質問だという指摘を受けるかもしれないが、あえて聞いておきたかった。
 昨年十月、米民主党のオバマ上院議員が大統領候補指名を争う中、「米国は核兵器のない世界を追求する」と発言した。首相はどう感じたか、夕方の「ぶらさがり会見」で尋ねた。返答は次のようなものだった。
 「そりゃ、そういう世界が実現すれば、それにこしたことはないと思います。まあ、いずれにしてもですね、核兵器を保有する、その競争をするような世界では、あまりよくないと思いますけどね」。被爆国の首相の言葉としては、あまりに物足らなく感じた。
 福田首相は確かに自身の置かれた状況を客観視し、慎重に発言する人だと思う。しかし、それだけでは務まらないのが首相の重責だろう。国民に自身の明確な意思を伝える必要に常に迫られている。辞任会見を聞きながら過去の取材経験がよみがえり、どうしても聞かずにはおれなかった。


*追記(2008年9月6日午前9時)
 タイトルを「福田首相に『あなたとは違うんです』と言わしめた中国新聞記者」から変えました。広島の中国新聞にしても、長崎新聞にしても、〝被爆地の新聞〟で働いていることにこだわり続ける人たちがいることを、新聞労連の専従時代に知りました。道面記者は名実ともに〝被爆地の新聞記者〟だと思います。
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by news-worker2 | 2008-09-04 02:14 | 新聞・マスメディア
 北京五輪が8日、開幕しました。昨夜は私事で開会式のテレビ中継は見ていませんが、けさの新聞各紙はそれぞれに伝えていることと思います。北京五輪の報道は、中国という「大国」をどう伝えるか、という側面も報道する側にとっては大きな課題であり、そこがこれまでの五輪とは大きく異なる点だと思います。よく知られているように、国家が表現の自由を制限している中で、日々、競技結果のほかにも何をどう伝えていくのか。新聞各紙を読み比べれば、各紙ごとのスタンスの違いなども読み取れるのではないでしょうか。
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by news-worker2 | 2008-08-09 08:26 | 新聞・マスメディア
 毎日新聞社の英文サイト「毎日デイリーニューズ」上のコラム「WaiWai」に不適切な記事が掲載されていた問題で、毎日新聞社はかねて予告していた通り、20日付朝刊と自社サイト上に内部調査結果と第3者委員会「『開かれた新聞』委員会」の委員4氏の意見を掲載しました。
 紙面では1面におわびの社告、22面と23面に調査結果と第3者委員会の意見があり、相当な記事量です。全文は毎日新聞のサイトで読めます。総じて、真摯に検証と再発防止策の策定に取り組んだとの印象をわたしは持っています。その上で、いくつか感じていることがあるのですが、整理した上で後日、書いてみたいと思います。
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by news-worker2 | 2008-07-22 01:10 | 新聞・マスメディア
d0140015_042289.jpg 9条改憲、日米同盟、海外派遣、防衛庁から省への昇格など、戦後日本と平和をめぐって常に論議になる自衛隊ですが、海自イージス艦と漁船の衝突・沈没事故(ことし2月)のほか、陸自隊員による鹿児島のタクシー運転手刺殺事件(ことし4月)のように、最近では大きな不祥事も目立つようになっています。本書は、その自衛隊の中で何が起きているのかに迫った渾身のリポートです。
 本書はプロローグで、自衛隊の年間自殺者が最近では80―100人に達していることを紹介し、次いで、隊員の自殺をめぐって、護衛艦や部隊内で日常的に上官らのいじめがあったとして遺族が提訴しているケースや、部隊内での上官殺害事件、守るべき市民を隊員が襲った連続強姦事件、部隊内でのセクハラに続いて「悪いのはお前の方だ」と言わんばかりに上司から退職を強要された女性自衛官の裁判闘争などを取り上げています。裁判になったいじめ自殺やセクハラ被害は、マスメディアでも報道されていますが、本書はさらに遺族や支援者らに突っ込んで取材しています。
 わたし自身は、自ら命を絶った隊員たちが、他人の役に立ちたいと自衛隊を志願し、仕事に誇りを持っていながら、いじめやパワハラで追い詰められていったことが、遺族らへの取材で明らかにされていることが強く印象に残りました。自衛隊のイラク派遣に関連して名古屋高裁が出した違憲判断をめぐる以前のエントリ(「名古屋高裁判決についての航空幕僚長発言に感じる危うさ」)でも触れましたが、「組織と個人」という観点から見たとき、自衛隊員であることに誇りを持ちながら、その自衛隊という組織は個々の隊員を守ることができないのが実態ではないか、との読後感を持っています。軍事組織とはそういうものなのだとしたら、将来、仮に9条改憲で自衛隊が「軍隊」になったときどんな組織になっていくのか、いったい軍事組織は何のために存在するのか、危うさを感じます。
 著者の三宅勝久さんは元地方紙記者です。著書をめぐって名誉棄損を理由に、消費者金融「武富士」から起こされた巨額の損害賠償請求訴訟をたたかいぬいたフリーランスのジャーナリストです(新聞労連の委員長当時に、言論弾圧をテーマにした集会にパネラーとして参加していた三宅さんの話を聞く機会があり、そのときから尊敬の念を抱いています)。
 自衛隊をめぐっては、窃盗や飲酒運転などマスメディアが大きくは取り上げない不祥事も頻発しています。報道発表が部隊所在地の地元記者クラブに対してだけ行われ、結果としてその地域のローカルニュースとしてしか取り上げられないことも、三宅さんは自身のブログで明らかにしています。こうした自衛隊の情報コントロールに、多くの取材拠点を構え組織取材を身上としているはずのマスメディアは、いとも簡単に乗せられてしまっているのではないか…。自衛隊の在り方と同時に、マスメディアの権力監視の在り方もまた問われているのだと自戒しています。
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by news-worker2 | 2008-07-05 23:45 | 読書
 4月から毎週土曜日の午前中に行っている明治学院大学社会学部での講義は昨日(6月21日)が10回目でした。開講した当初は長丁場をどう乗り切るか不安がありましたが、気付いてみれば残りはあと3回です。
 昨日からは「ネット社会、多メディア社会と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。
 日本の新聞は産業としてみれば、1980年代まで右肩上がりの成長を続けていました。ビジネスモデルとして見ると、まず読者からの購読料があり、次いで広告媒体としての広告料があります。新聞社と購読者の間には、新聞社ごとに系列化された販売店網があり、それが戸別配達と新たな購読者獲得を支えています。販売店には、折り込み広告(チラシ)という独自収入もあり、扱い部数が増えれば独自収入も増える仕組みです。このビジネスモデルを総体として見ると、発行部数が増えれば新聞社は購読料収入も広告料収入も増え、販売店も折り込み広告が増えることになります。必然的に、新聞社経営は「部数第一主義」となり、この経営方針が長らく続いてきました。そこから強引な勧誘方法が社会問題にもなっていたりしました。
 しかし近年、このビジネスモデルでは立ち行かないことがはっきりしてきています。要因としては部数の伸び悩み、あるいは広告媒体としての地位の低下があり、また販売店網の維持と密接にかかわる再販制度にも90年代半ば以降、たびたび見直し議論が浮上しています。ちなみに再販問題とは、「再販売価格維持制度」をめぐる問題です。商品の取引では通常、メーカーや卸から仕入れたものをいくらで消費者に販売(再販売)するかは小売業者の自由ですが、新聞は販売店(小売業者)の販売価格を新聞社(メーカー)が指定することができ、独禁法の適用除外商品になっています。
 この新聞経営のビジネスモデルにかげりが見え始め、やがて限界がはっきりし始めた時期は、ちょうど90年代半ば以降、インターネットが日本社会にも普及、発展していった時期と重なります。ネット上に流れているニュース記事はだれでも無料で読めるためか、新聞産業内には「新聞が売れなくなったのはネットのため」といった見方や、さらにはネット上の掲示板やブログなどの表現活動を「便所の落書き」などと見下す風潮が根強く残っていると感じています。一方で、新聞経営が従来のビジネスモデルのほかに収益モデルを見出す必要性に迫られているのも、今や明白ですし、この点については新聞産業の中でも共通認識になっていると思います。
 ネット社会と新聞、あるいは新聞ジャーナリズムを考える際には、わたしは「新聞経営」と「新聞ジャーナリズム」の2つの側面があると思っています。「企業としての新聞社」と「メディアとしての新聞」と言ってもいいかもしれません。この2つの混同は避けなければなりません。ジャーナリズムの面で言えば新聞の強みは「組織の取材力」だと思います。しかし「だから紙メディアの新聞のほうがネット言論よりもすぐれている」というものでもないですし、ネット上での収益を追求するあまりに組織取材がおかしくなるようでは本末転倒になってしまうとも思います。

 講義では以上の状況を前提として、 ネットと新聞ジャーナリズムについて話していくつもりですが、結論めいたことをあえて先に言うと、新聞(マスメディアと言い換えてもいいかもしれません)が伝えていないことも読者はネットで知っているのが今日の状況だということです。言い方を変えれば、今までは新聞が書かないことは、社会にとっては「なかったことと同じ」だったのかもしれませんが、今はそうではありません。新聞が書いてこなかったことを、ネットを通じて知っている人たちをも読者と想定して、さて新聞はこれから何をどのように書いていけばいいのかが問われているのだと考えています。 
 昨日の講義では、以前のエントリ「『何が起きたか』を伝えるのは誰か~秋葉原・無差別殺傷事件で思うこと」に沿って、秋葉原の無差別殺傷事件の現場で起きたことを題材に、新聞を含めたマスメディアのメディアとしての「正統性」が問われている状況を話しました。秋葉原の事件の現場で、携帯電話のカメラで写真を撮りながらも、救護活動に加わらなかった人が少なからずいたことに批判も出ていますが、その批判を、現場で取材活動を展開したマスメディアに当てはめた場合、マスメディアはきちんと答えられるのか。その「正統性」が問われているのだと思います。
 引き続き、ネット社会の中での新聞ジャーナリズムの在り方についてわたしなりの考えを整理しながら、次回以降の講義を進めていきたいと考えています。
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by news-worker2 | 2008-06-23 01:12 | 非常勤講師
 明治学院大学社会学部での非常勤講師の講義は、昨日(5月31日)から「表現規制と新聞ジャーナリズム」のテーマに入りました。長らくの間、直接、法規制が問題になることがなかった新聞ジャーナリズムですが、この10年はさまざまな動きが相次いでいます。そのことを紹介し、その規制をはねつけ続けていくためには何が必要かを、わたし自身も考えていきたいと思っています。
 昨日の講義では「表現規制」という言葉の用法について説明しました。わたしが「表現規制」という用語で意味しているものには、新聞社や放送局、あるいは出版社や雑誌などの取材・報道活動を直接、法律による規制、制限の対象にする、ということも含んでいます。ですから人によっては、あるいは新聞や放送の報道でも多くの場合は「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいることが多いと思います。しかし、この呼び方では、新聞や放送など、既存のマスメディアさえ直接規制の対象から外れれば問題はない、というイメージを与えかねません。
 かつて2001―02年当時、個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を指して「メディア規制3法案」とマスメディア自身が呼んでいたことがありました。このうち唯一実現した個人情報保護法を見ても、新聞や放送の取材・報道行為は適用除外とされながらも、社会に(とりわけ公権力の側の不祥事情報の開示に)過剰な反応が広がり、結果として市民の「知る権利」が阻害される、という事態が現に進行しています。01―02年当時、新聞各紙は大々的な論陣を張り、新聞や放送の取材・報道活動を直接規制の対象から外すよう、自らの媒体を使って強く主張しました。そのこと自体にわたしは異論はないのですが、自らへの直接規制が外れた途端に、法案が抱えている問題点を検証し追及する姿勢が急速にしぼみ、そのことが今日の個人情報の過剰保護(とりわけ公権力による)を招いた一因になっている気がしてなりません。
 インターネットをはじめとして、社会の情報発信手段が多様化している今日、表現の自由はマスメディアだけの問題ではありません。むしろ公権力の側の方が、そういった情報発進の多様化には敏感になっていると感じます。新聞をはじめとしてマスメディアの側は、仮に自らが直接の規制対象として明示されていなくても、表現の自由への規制の動きには、今まで以上に、そして公権力の側以上に敏感にならなくてはならないと思います。放送と通信の一元規制化が現実のものになりつつある今、いつまでも「新聞はネットとは違う」「ネットに規制は必要だ」と考えているのだとしたら、いずれ自らの首を絞めることになりかねないことを危惧しています。
 以上のような考えから、わたしはマスメディアが「メディア規制」「取材・報道規制」と呼んでいる表現活動の法規制の動きでも、あえて「表現規制」と呼ぶことにしています。

 講義ではまず、表現規制にかかわる現在進行の動きとして、裁判員制度と事件事故報道から話し始めました。だれが裁判員になるか分からない段階から、事件や事故の報道は始まっています。逮捕された容疑者について、読者や視聴者が報道によって予断や偏見を抱くことがあるとすれば、その読者や視聴者が仮に裁判員に選任された際に、公正な裁判が確保できるかどうかが危ぶまれるのは当然でしょう。事件事故報道が法によって規制されることがないようにするために、報道する側の姿勢が問われることになります。
 既にことし1月、新聞協会「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を公表し、新聞各社も近く、事件事故報道の一定の基準を策定する見通しです。表現規制に対して、新聞のジャーナリズムの問題としてどう考えていくのか、学生たちの理解の助けになるような講義にしていきたいと考えています。
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by news-worker2 | 2008-06-01 23:40 | 非常勤講師
 政府の教育再生懇談会が26日、第一次報告を福田首相に提出しました。共同通信の記事を一部引用します。

 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾長)は26日夕、官邸で会合を開き、小中学生の携帯電話使用を制限し有害情報から子どもを守ることなどを柱とする第1次報告をまとめ、福田康夫首相に提出した。(中略)報告は、出会い系サイトを舞台にした犯罪の続発を踏まえ「必要のない限り小中学生が携帯電話を持たないよう保護者、学校関係者が協力する」ことを要請。小中学生が携帯電話を持つ場合には、通話や位置確認できる衛星利用測位システム(GPS)機能に限定し、メールを使わせない対策を推進するとした。

 首相官邸のサイトに教育再生懇談会のページがあり、26日の報告の資料もPDFファイルでダウンロードできます。
 原資料を見て、あらためて驚きました。小中学生の携帯電話に関するくだりは、いちばん最初に出てくるのですが、こんな文章が並んでいます。

 小中学生に対して、携帯電話を利用するに当たっての使用目的、使用機能、使用方法、使用場所等に関する利用方法の教育を、保護者、家庭、学校、地域、PTA、教育委員会、地方公共団体、携帯電話事業者及び関係業界、経済界、行政等の関係者を含め、社会総がかりで協力して推進する。これにより、必要のない限り小中学生が携帯電話を持つことがないよう、保護者、学校はじめ関係者が協力する。

 「小中学生に対して~利用方法の教育を~推進する」と言いながら、「これにより」として、掲げる目的は「必要のない限り小中学生が携帯電話を持つことがないよう、保護者、学校はじめ関係者が協力する」。「利用方法の教育を推進し、持たせないようにする」とは、文章を仕事にしている者から見れば、意味不明の日本語です。
 こんな文章も並んでいます。

 保護者、家庭、学校、地域、PTA、教育委員会、地方公共団体、携帯電話事業者及び関係業界、経済界、行政等が協力して、子供の携帯電話利用により生ずる犯罪やいじめの実態等の、教育委員会単位、学校単位等での具体的な広報を推進する。また、携帯電話の普及に伴い、駅等の公衆電話が減少しているが、社会的機能の重要性に鑑み、電話会社は一定数を確保するよう努める。

 ただひたすら「携帯電話は怖い、恐ろしい」と広めよ、というふうに読めます。これでは子どもはおろか、保護者や大人のネットリテラシーすらあやしくなるのではないでしょうか。
 「保護者、家庭、学校、地域、PTA、教育委員会、地方公共団体、携帯電話事業者及び関係業界、経済界、行政等」というのも、「国家統制」そのものに思えてしまいます。
 懇談会の10人のメンバーの間で、どのような議論が交わされたのかつまびらかではありませんが、「小中学生に携帯電話を持たせるな」は、懇談会に出席した福田首相の強い意向ということも報道されています。意味不明の日本語が並んだ報告書は、そのこと自体、懇談会メンバーの中には異論があったことを反映しているのかもしれません。詳細な議事録の公表を待ちたいと思います。
 ちなみに、報道で紹介されている懇談会の報告は、PDF原資料の中の「ポイント」をもとにしたものが多いようです。日本語としての意味不明さは、全文を読まなければ分かりません。こんなことでも(「メディア」に対する、ですが)リテラシーを考えるきっかけになるのではないでしょうか。

 以前のエントリ(「ネットの法規制論議と表現の自由」「マスメディア自身にも『自主的取り組み』は課題」)でも書きましたが、わたしは「青少年の健全育成」「子どもの保護」や「有害情報の排除」を大義名分にしたネット規制の動きには、大きく2つの疑問を感じています。
 一つはマスメディアで働く一員としての危惧ですが、「有害情報」の線引きが事実上、国家権力の裁量次第になりかねないことです。恣意的な運用を許すようなことになれば、「表現の自由」「知る権利」の圧迫にほかなりません。通信と放送の一元規制が現実味を帯びている現在、ことはネットだけの問題ではなく、既存のマスメディアも影響を免れえないととらえています。
 二つ目は社会の一員、生活者の一人として感じることですが、子どものネットリテラシーをどう高めるかの議論より先に、「ネットに触れさせるな」となってしまっては、ますます子どもたちにリテラシーを身につけさせることが難しくなることです。段階を踏んでリテラシーを学んでいくことが大切であり、そのためには大人もネットリテラシーを身につけることが必要だと思います。

 時々のぞいているサイト「bogusne.ws」にこんな記事がありました。
 「小中学生にはことば教えない」有害情報対策で教育再生懇提言
 笑いごとでは済まない社会になりつつあると思います。

*追記(2008年5月28日午前1時35分)
 元徳島新聞記者の藤代裕之さんがブログ「ガ島通信」のエントリでわたしのエントリを紹介してくれました。その中でも触れられていますが、ネット規制に反対している高等学校PTA連合会の高橋正夫会長に藤代さんがインタビューした記事は、とても参考になります。一読をお勧めします。
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by news-worker2 | 2008-05-28 01:13 | 表現の自由
d0140015_0175618.jpg 弁護士の日隅一雄さんから新著の「マスコミはなぜ『マスゴミ』と呼ばれるのか」を送っていただきました。日隅さん、ありがとうございました。
 何よりも、新聞と放送の2大マスメディアで働く第一線の記者にぜひ読んでほしい1冊です。本書は「権力に縛られたメディアのシステムを俯瞰する」との副題の通り、日本の新聞ジャーナリズムと放送ジャーナリズムが実は「新聞社」や「放送局」の会社ジャーナリズムであること、「新聞社」と「放送局」の在り方を決めている要因が読者や視聴者ではなく、国家権力(総務省による直接の電波管理行政に代表される)とメディア企業の資本持ち合い(クロスオーナーシップ)と広告業界(1業種1社制の不採用)の〝3点セット〟であることを、具体的に指摘しています。
 新聞社の記者であれば、新聞販売が独禁法の適用除外となっている再販制度や特殊指定のことはある程度は知っているでしょう。しかし、免許制の放送行政で、戦後間もなくは独立行政委員会が存在していたことを知っている記者は、経済部や文化部の一部の記者を除けば、どれぐらいいるでしょうか。逆に、放送局の記者の中で、新聞の戸別配達(宅配)のことを正確に理解している記者はどれぐらいいるでしょうか。クロスオーナーシップにしても、新聞社と放送局の系列関係は知識としては知っていても、それが「表現の自由」や「知る権利」とどのような関係にあるか、常日頃から念頭においている記者はどれぐらいいるでしょうか。
 マスメディアが身上としている組織ジャーナリズムは、一方で個々の記者が細かく担当分野別に分かれて日々取材している状況でもあります。政治部でも経済部でも社会部でも、特定の記者クラブに所属し、専門分野で日々取材に明け暮れし(そこでは他社との熾烈な「抜いた」「抜かれた」の競争があります)ていると、自分たちが身を置いているメディア界の全体状況や足元全体を見回す余裕はなくなります。わたし自身がそうでした。ましてやマスメディアの在り方を、そこで働く者同士の間で考え、広く議論する機会はなかなかありません。本書は、「表現の自由」や「知る権利」の観点に照らして、新聞や放送の「会社ジャーナリズム」が構造的に抱えているもろさや危うさを描き出していると言ってよく、まずは記者の一人一人が身の回りの現状を理解し、問題点を把握するのに役立つと思います。
 本書はさらに、会社ジャーナリズムの内側、メディア企業の中の諸問題にも切り込んでいきます。とりわけ編集権の所在について、もっぱら経営者に帰するとした日本新聞協会の「編集権声明」に疑問を投げ掛けている指摘は、メディア企業とそこで働く記者個人の内心の自由との関係で重要な論点だと感じました(「編集権声明」は1948年(60年も前の声明です)当時の文言のまま今日に至っているようです。日本新聞協会のホームページの「取材と報道」のページで読むことができます)。労働組合の形骸化の指摘に対しては、計3年間の専従活動を経験したわたしとしては切なさと若干の異論もあるのですが、基本的には返す言葉がありません。
 続いて本書は1990年代末以降のメディア規制立法の動きを追い、2010年に法案提出とされる「通信と放送の融合」がはらむメディア規制、表現規制の危険性を指摘し、最後に現状の改善への展望を示しています。
 繰り返しになりますが、1人でも多くの第一線で働く記者たちに読んでほしい1冊です。経営者にも本書の指摘を真摯に受け止めてほしいことは、言うまでもありません。
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by news-worker2 | 2008-05-07 00:12 | 読書