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続・高須大将の述懐

 田母神俊雄・前航空幕僚長の侵略戦争否定発言をめぐって、前回のエントリー「五・一五事件裁判長が遺した述懐~『前空幕長処分せず』で危惧されること」で取り上げた阿川弘之「軍艦長門の生涯」に出てくる高須四郎大将の逸話について、エントリーでもご紹介したブログ「ある教会の牧師室」管理人のちばさんから、引用した該当部分の原文をメールでご教示いただきました。またわたしの引用の適否についても丁寧なご指摘をいただきました。
 前回のエントリーでわたしは「五・一五事件で軍人たちの処断が甘かったことが後年の二・二六事件を誘発する一因になったとの指摘を、敗色が濃くなる中で死の床にあった高須大将自身が完全には否定しきれなかった(自分の判決が「間違っていた」とは思っていなかったにせよ)のではないかと、わたしは受け止めています。」と書いたのですが、ちばさんにご教示いただいた原文では、高須大将は息子に、以下のように語っています。
「五・一五事件の処置が甘かったから、次に二・二六事件を誘発したと言う人があるが、それは時間の経過の上でそう見えるだけの話で、歴史を知らない人の言い草だと思う。海軍にかぎっては、あの判決のあと、青年将校の政治関与とか、暗殺事件とかいったものは一つもおこっていない。米内(光政)さんが大臣に、山本(五十六)さんが次官に坐って、非常にはっきりした強い態度を部内に示されたせいもあるけれども、海軍は分裂の方向から統一の方向へ向って行った」
「死刑にして国内だけで簡単におさまるものならいいが、そう行かない証拠に、二・二六事件の時は、あれだけ大勢の被告を銃殺しておきながら、陸軍はたちまち翌年、盧(※原文は草冠が付いている)溝橋でああいう暴発をしたじゃないか。謀略の手は、こちらの側からだけ動いたのではないかも知れないが、結局その後始末をつけようとして、日独伊三国同盟、仏印進駐、対米英開戦と、こんにちの事態まで追い込まれてしまった。満州事変以来の総決算がここまで来たんだよ。残念なことだ。五十六さんだけは、私のほんとうの気持ちを分かってくれていたように思うがね」

 田母神氏の論文問題に即して高須大将の述懐を考えるなら、今日の防衛省・自衛隊に、米内光政海軍大臣―山本五十六次官のような「非常にはっきりした強い態度」でシビリアンコントロールの理念を部内に示すような存在が必要なのだ、という気が今はしています。
 阿川弘之さんの作品群には、米内光政や山本五十六とともに、「最後の海軍大将」である井上成美とあわせて「提督3部作」と呼ばれる3作の評伝もあり、今日の自衛隊のあり方を考える上でも示唆に富むエピソードが豊富に収録されています。統帥権が独立していた当時でも「軍人が政治に関して外部で発言するのは大臣に限る」との姿勢を強く部内に示していた米内光政や山本五十六、井上成美らのエピソードは、強く印象に残るものですが、これらの評伝も手持ちの原本が見つからないので、ここでのこれ以上の紹介はやめます。

 田母神氏の問題をめぐってはその後、APAグループの懸賞論文に90人以上の自衛官の応募があり、中でも航空自衛隊小松基地の第6航空団所属の尉官、佐官が約60人と多かったことが明らかになっています。その小松基地では、田母神氏が6空団司令時代の1999年にAPAグループ代表の元谷外志雄氏らが中心になって、金沢市に「小松基地金沢友の会」をつくっていたことも明らかになりました。他の自衛官が応募した論文の内容は明らかではありませんが、田母神氏の問題は田母神氏1人の問題にとどまらないのかもしれません。
 わたし自身は、自衛官であってもどのような歴史観・思想を持っているかは基本的には個人の「内心の自由」に属するものの、それを自衛隊の外部に公表するとなると、「言論の自由」ではすまされない別の問題になる、と考えています。国家の暴力装置の一部である自衛官は、その職務について憲法と自衛隊法で文官の指揮監督下にあることが明記されています。ことが政治的議論に及ぶテーマについては、私見を一切口に出さない、出すなら制服を脱いでからにすべきでしょう。
 わたしは田母神氏が更迭はされたものの定年退職となったことについては、やはり何らかの人事上の処分が必要だった(懲戒免職かどうかは別として)と考えています。同時に、今後のこととして、シビリアンコントロールの徹底が必要だと思います。実態として徹底されることももちろん大切なのですが、その理念をどう自衛隊内部で教育していくかということも重要だと思います。現代の米内光政、現代の山本五十六はいないのでしょうか。
 
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by news-worker2 | 2008-11-08 23:44
 前回のエントリーで取り上げた航空自衛隊の田母神俊雄・前航空幕僚長の侵略否定論文問題で3日、大きな動きがありました。3日夜、防衛省は田母神氏が定年退職となったことを公表。防衛省の説明では、空幕長の定年は62歳、空将の定年は60歳で、10月31日の解任の時点で既に定年でしたが、懲戒処分に備えた調査のために定年延長になっていました。しかし、田母神氏は調査に応じることを拒否し、辞職の意思も示さなかったため、定年延長を打ち切ったようです。
 田母神氏も3日夜、東京都内で記者会見し、「日本は侵略国家ではない」とあらためて自説を述べた上で「解任は断腸の思い」「私の解任で、自衛官の発言が困難になったり、議論が収縮したりするのではなく、むしろこれを契機に歴史認識と国家・国防のあり方について率直で活発な議論が巻き起こることを日本のために心から願っている」などと述べました。
 マスメディアの報道を総合して判断するに、防衛省は田母神氏をかばって定年退職としたわけではないようです。むしろ、政府見解を否定する内容の論文(「論文」と呼ぶにはあまりに稚拙な内容だと思いますが、それはさて置きます)を官職名を明らかにして発表したことに危機感を抱いていることがうかがえます。いわば、前空幕長に「迫力負け」したということなのでしょうか。わたしは、こと政治にかかわる事柄は、仮に個人的な見解であっても、武力を手にする自衛官が官職を伴った場で公に口にすることは厳に戒めなければならないと考えていますし、それは憲法が保障する「言論の自由」とは異質の、異なったレベルの問題だと思います。その意味で、今回の田母神氏の論文は明確に自衛官として守らなければならない一線を踏み外していますし、何としても懲戒処分が必要だったと思います。
 田母神氏への処分見送りで危惧されるのは、自衛隊内で田母神氏と同じ考え、歴史観を持つ自衛官らが何か考え違いをしかねないことです。田母神氏は空幕長という組織のトップとして論文を公表したので咎められた、一介の自衛官としての発言なら許される、問題にはならないのだ、という考え違いであり、「言論の自由」のはき違いと言っていいかもしれません。

 思い起こされるのは、戦前の軍人の暴走です。
 旧海軍の大将で、戦争中の1944年9月に病死した高須四郎という人がいました。米内光政や山本五十六ら、不戦海軍を信条としていたいわゆる「旧海軍左派」に連なるとされる提督です。高須大将が大佐の当時に、1932年に海軍士官らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件の軍法会議で、裁判長にあたる判士長を務めました。軍法会議は一人も死刑判決を出さずに終わりました。
 阿川弘之さんの小説「軍艦長門の生涯」に出てくる逸話(手持ちの本が見つからず、記憶に頼って書いているのですが大筋は間違っていないと思います)で、病床の高須大将が息子に五・一五事件の軍法会議を述懐する場面があります。高須大将は、五・一五事件の判決が実行犯たちに甘かったために後年の二・二六事件を招いた、との批判があることを苦にしていることを吐露し「もしあの時、死刑になる者が出ていれば、同じ思想を持った者が暴発していたかもしれない。それを防ぎたかった」という趣旨のことを息子に話した、そんな内容だったと記憶しています。この点、ウイキペデイアの「高須四郎」の記述では、「『死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ』と家族に胸中を吐露していた」となっています。わたしの記憶に誤りがあるかもしれませんが、いずれにせよ、五・一五事件で軍人たちの処断が甘かったことが後年の二・二六事件を誘発する一因になったとの指摘を、敗色が濃くなる中で死の床にあった高須大将自身が完全には否定しきれなかった(自分の判決が「間違っていた」とは思っていなかったにせよ)のではないかと、わたしは受け止めています。
 田母神氏の論文問題に話を戻すと、田母神氏を最優秀賞に選考したAPAグループ主催の懸賞論文には、ほかにも50人以上の自衛官が応募していたことも報道されています。田母神氏が空幕長職を解かれはしたものの、一自衛官としては何ら処分を受けることなく定年退職したことは、これらの自衛官にどう受け止められるでしょうか。あるいは、独自の思想を同じくする自衛官グループが組織化されていき、さらには外部の同じ思想グループと結び付いていったときに、自衛隊のシビリアンコントロールは守られるのか、軍事に対する政治の優位は保たれるのか。それらの将来への懸念を払拭するためにも、田母神氏への断固たる処分が必要だったのではないかと思います。しかし、その機会は失われてしまいました。
 禍根を残さないためには、防衛大をはじめとして自衛隊内部の教育態勢や、制服組の人事の検証と見直しが不可欠だと思います。それはジャーナリズムの課題でもあり、自衛隊の内部で何が起きているのかが、この国の主権者である国民に広く知られなければならないと思います。

 高須四郎大将のことをネットで検索していたら、牧師さんが運営しているブログ「ある教会の牧師室」のエントリー「大切な言葉が聞こえるか?」(2005年10月23日)に行き当たりました。「軍艦長門の生涯」の中の挿話ですが、すっかり忘れていました。田母神氏の論文問題をどう考えるかに際して、今日のわたしたちが知っていていい高須大将のもう一つの逸話だと思います。少し長いのですが、以下にエントリーの一部を引用して紹介します。
ところで、昨日も紹介した海軍大将高須四郎のもう一つの逸話が「軍艦長門の生涯」(阿川弘之著)の下巻267ページに紹介されています。彼は、昭和15年2月にある作戦室兼会合所が落成した折り、その建物の名前を考えてくれと頼まれ、「呼南閣」と名付けたそうです。

「長官、呼南閣とはどういう意味ですか?」と部下に問われると「それはね、南進論、南進論と、このごろ内地でやかましく言っているが、南方の資源が欲しくて、ただやみくもに南へ出ていくというのでは駄目だと私は思うのだ」「南方の人たちが、日本の徳望をしたって、向こうから自然に近づいて来る、日本人がもっと豊かな心を持って、南の人たちをこちらへ呼び寄せる、そうありたい。行くぞ行くぞと独りよがりの気勢をあげるより、おいでおいでの方がいいじゃないか。まあ、そんな気持ちでつけた名前だよ。甘い考えと笑われるかも知れないが、武威を以て南方を制圧しようとすれば、日本は必ずつまづくのではないだろうかね」

今、「侵略なんて無かった」と言っている人がたくさん居ます。しかし、当時の高須四郎のような人がこんな事を言っていたことを考えると、少なくても日本は、南進論という熱病に浮かされていたでしょうし、大東亜共栄の美辞麗句の裏で、資源を狙い、植民地を増やそうとしていたことだけは間違いがないようです。

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by news-worker2 | 2008-11-05 02:26
 また自衛隊の話題です。
 防衛秘密にあたる海上自衛隊イージス艦のイージスシステム情報を流出させたとして「日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法(以下、秘密保護法と表記します)」違反の罪に問われていた海上自衛隊艦艇開発隊所属(当時)の3等海佐に対し、横浜地裁が28日、無罪主張を退け懲役2年6月、執行猶予4年の判決を言い渡しました。
 この事件では、イージスシステム情報は海自内部に拡散し、アクセス権限がない多数の隊員の手に渡っていましたが、外部への流出は確認されませんでした。そもそも3佐はイージス艦以外の護衛艦システムを担当しており、秘密保護法が規定する処罰の対象者に当たるかどうかがまず大きな争点でした。3佐は隊員教育のために「善かれ」と考え、上司にも相談した上で、海自第一術科学校の教官(当時)に情報ファイルを記録したCDを送っていました。スパイ行為でもなく、秘密保護法が処罰の対象にしている「他人への漏えい」に当たるかどうかが第2の争点でした。判決はいずれも、検察側の主張をほぼ全面的に採用しました。
 判決は一方で、海自内部の情報管理のずさんさも指摘して執行猶予を付けた要因の一つに挙げています。判決それ自体だけを見れば「3佐に気の毒な面はあっても落ち度は落ち度で有罪はやむなし」「海上自衛隊の規律のゆるみも同時に断罪されたに等しい」「全体として妥当な判断」との印象を受けます。自衛隊の規律の粛正それ自体に異論を差し挟む余地は少ないだろうとは思うのですが、しかしそれにしても、わたしは今回の判決にはもう少し大きな問題が内包されているのではないかと考えています。
 判決は直接触れていないようですが、3佐の立件の背景には、日本に提供した軍事情報が漏えいすることに米国が強い不快感を示していたこと、捜査当局内には立件への異論もありながら最終的に「対米配慮」が重視され、3佐が逮捕・起訴に至ったことが、これまでの報道でも繰り返し指摘されていました。
 「もう少し大きな問題」というのは、日米の軍事一体化の大きな流れを背景に日本社会で、とりわけ自衛隊に絡む事柄では、米国の不興を買いかねない行為への厳罰化が進むのではないか、ということです。少し違った角度から言えば、捜査当局内にさえ異論があった立件に対し、裁判所が検察側主張をほぼ丸呑みにして有罪を認定したことは、結果としてであれ、司法が「対米配慮」を追認したと言えるのではないか、ということです。
 自衛隊内の規律維持に異論はないとして、しかし、そのことと規律違反の行為に刑事責任を問うこととの間には本来、一線が敷かれるべきです。また、仮に3佐の行為が外形的には「違法」となるにしても、刑罰を科すまでの悪質性があるのか、という論点も成り立つのではないかと思います。米国の不興を買い、日米軍事同盟の維持、進化に好ましくない行為には厳罰でもって臨む、というふうな風潮が日本社会に広がっていくことになりかねない、との危惧をわたしは抱いています。
 今回の事件は、結果的に自衛隊という組織の枠を出ることはありませんでした。いわば自衛隊内で完結した事件であったために、判決が内包している危険性が見えにくいとも言えるのではないかと思います。しかし、思い起こすのは、中国潜水艦のトラブルをめぐって、読売新聞の情報源の自衛官が自衛隊警務隊によって摘発され、職を奪われた事件です(以前のエントリー参照)。読売新聞情報源の一件が刑事手続きでは起訴猶予になったとはいえ、「米国の意向」が最優先という意味ではイージス艦情報の一件は同根だと思います。
 今回の秘密保護法は制定から半世紀以上の間、摘発例がありませんでした。半世紀以上前の立法趣旨がどこにあったのか、その辺の検討がないままに、条文を機械的に、検察主張のままに解釈し有罪を言い渡した判決は本当に妥当なのか。秘密保護法を適用し有罪にするハードルが実はさほど高くないことを、今回の判決は実績として残したのではないのか。そうした疑問を感じずにはいられません。日米同盟のじゃまになること、じゃまになる人間には事情のいかんを省みず刑事罰で臨み排除していく、ということがまかり通るなら、憲法が保障しているはずの「表現の自由」や「知る権利」などの市民的諸権利も、やがては「軍事情報の秘匿」よりも下位へと追いやられるでしょう。そして、秘匿すべき情報か否かの判断は、米国の意向、さじ加減ひとつということになりかねません。決して望ましいことではないと思います。秘匿が必要な情報か否かを主権者たる国民が検証できないままに、市民的諸権利に軍事的事情が優先する社会とは、戦争社会です。

 横浜地裁判決を新聞各紙も28日付夕刊と29日付朝刊で取り上げました。自衛隊関連のニュースの通例で、解説記事や社説ではそれぞれの新聞の自衛隊に対するスタンスの違いが反映されています。ここでは、共同通信が配信し地方紙に掲載された軍事ジャーナリスト前田哲男さんのコメントを一部紹介します。
 ミサイル防衛(MD)や在日米軍再編などで自衛隊と米軍が高度な秘密情報を共有するなど関係強化が進む中、秘密の管理や保護を厳格化する防衛省側の考えの流れに沿った判決だ。秘密保護法が本来想定した「スパイ事件」ではない情報流出に同法を適用した問題点は審理されずに終わった印象だ。

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by news-worker2 | 2008-10-30 02:15
d0140015_0151071.jpg 以前のエントリ「『戦争はいらぬ、やれぬ』~朝日新聞むのたけじさんインタビュー記事」で紹介した元朝日新聞記者でジャーナリストむのたけじさんの一問一答式の聞き書きが岩波新書で刊行されました。聞き手の黒岩さんは、むのさんより43歳年下のノンフィクション・ライター。本書の「まえがきにかえて」によると、1997年に初めてインタビューして以来の交友関係で、むのさんが以前、岩波新書を一冊書くと約束したまま果たせないでいることを知り、聞き書きの形を提案。本書の刊行となりました。
 敗戦から63年がたった今、あの戦争を新聞記者として体験し、戦後は戦争反対を貫いてきたむのさんの本書には、多くの価値があると思います。中でも第2章の「従軍記者としての戦争体験」は、インドネシアに従軍記者として派遣された際に見聞きしたことの証言であり、戦争の実相の記録としても貴重だと思います。ここでむのさんは次のように述べています。
 インドネシアでのいろいろな出来事は、『たいまつ十六年』に書いていますが、今回は、これまで本でも、講演でもあまり言わなかったことを話しましょう。それは、本当の戦争とはどういうものか、ということです。


(続きます)
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by news-worker2 | 2008-09-22 00:30 | 読書
 エントリ「読書:『戦争絶滅へ、人間復活へ―九三歳、ジャーナリストの発言』(むのたけじ 聞き手黒岩比佐子、岩波新書)」に関連した参考情報です。

▽「沖縄戦新聞」
琉球新報ホームページの紹介文より引用
本紙記者が沖縄戦当時にさかのぼり、当時の報道を検証し、新たな事実、貴重な証言などを加味しながら、60年後に再構成した新聞です。言論統制の戦時下では伝えられなかった沖縄戦の全体像を現在の視点で報道しています。

▽ヒロシマ新聞
 むのさんの対談でも触れられていますが、「沖縄戦新聞」に先立つものとして、戦後50年の1995年に広島の中国新聞労働組合が制作した「ヒロシマ新聞」があります。原爆で発行できなかった1945年8月7日付けの紙面を50年後に発行する、との取り組みで、10年後の2005年にはWeb化されました。
 ヒロシマ新聞サイト

▽しんけん平和新聞
 ヒロシマ新聞、沖縄戦新聞に続く取り組みとして、新聞労連は2005年8月に「しんけん平和新聞」創刊号を発行しました。以後、毎年1回、労連の新聞研究活動として発行を続け、ことしは第4号を制作しています。
 新聞労連ホームページの紹介記事

 創刊号、第2号(2006年5月)は、わたしも制作に参加しました。旧ブログ「ニュース・ワーカー」の関連エントリも読んでいただけたら幸いです。
 「しんけん平和新聞」
 「しんけん平和新聞第2号」
 
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by news-worker2 | 2008-09-22 00:04 | 新聞・マスメディア
 少し時間がたってしまいましたが、イラクへの自衛隊派遣をめぐって政府は9月11日、航空自衛隊の派遣部隊を年内にも撤収させる方針を正式に表明しました。それまでもマスメディアの報道などで伝えられていたことであり、撤収方針それ自体には大きな驚きはありませんでしたが、米英軍のイラク侵攻につながる2001年の米中枢同時テロからちょうど7年に当たる日、しかも自民党総裁選の真っ只中での正式表明には、わたしは現政権の意図的な思惑を感じずにはいられません。マスメディアの報道も一様に指摘していますが、名古屋高裁がことし4月17日、航空自衛隊の物資輸送活動を憲法9条違反などとする判断を示しました。そうしたこともあって、イラクへの自衛隊派遣継続を掲げていては自民党総裁選後に予想される衆院選に勝てない、と政権・与党が判断したと考えても、うがち過ぎではないだろうと思います。
 自衛隊の撤収自体には、わたしは個人的な考えとして異論はありません。問題は、派遣部隊の活動をめぐって、政府の具体的な情報開示が依然としてないことだと考えています。
 名古屋高裁判決は、自衛隊の空輸先に含まれているバグダッドが「戦闘地域」であること、その戦闘地域で戦闘に従事する武装兵員をも空輸していることを認定し、「違憲」判断を導きました。しかし、判決が確定して以降、今に至るまでも政府・防衛省は具体的にバグダッドへ何を運んだのか、情報開示をしていません。政府は様々なレベルで「違憲」への不快感を表明しましたが、本来ならば、情報を開示し是非を有権者の判断に委ねるのが民主主義のありようではないかと思います。3権分立の観点からみて、司法の指摘を行政が黙殺している現状で、では何が必要なのか。わたしは、その一つとして、自衛隊が実際に運んだもの、運んでいるものは何なのかを独自に検証して報道し、政府に情報公開を迫っていくジャーナリズムがあると思います。多大な困難はあろうとも、新聞をはじめマスメディアの組織ジャーナリズムがそれを成し遂げてこそ、権力の監視役に足りうるのだと思います。

 名古屋高裁判決の意味を広く社会に広めていこうと、訴訟の原告側弁護団が各地で報告会を開いていることを最近知りました。8月末現在で既に150回を超えたそうです。
 「自衛隊イラク派兵違憲判決~その後」(弁護団のホームページ)

 この取り組みを知って「訴訟は判決が確定したら終わり、ではない」ということに、あらためて気付かされました。訴訟を起こし、判決が出たらそれを社会に知らせてゆく、そのこと自体がひとつの「運動」なのだと思います。権力側の動向を情報として発信するのと同じように、そうした運動をも紹介していくこともマスメディアのジャーナリズムの責務だろうと考えています。

 イラクへの自衛隊派遣と名古屋高裁判決に関連したわたしの過去エントリを以下にまとめておきます(新着順です)。

近況:「軍事報道と表現の自由」の講義が終わりました
福島元判事の東京新聞インタビュー記事~憲法記念日と新聞、マスメディア
自衛隊イラク派遣の違憲判断が確定
名古屋高裁判決についての航空幕僚長発言に感じる危うさ
だれにも戦争協力拒否権がある~名古屋高裁の空自イラク派遣「違憲」判断に思うこと
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by news-worker2 | 2008-09-15 10:45 | 憲法
 少し時間が経ってしまいましたが、22日付の朝日新聞朝刊総合面(東京本社発行)の「あしたを考える」の欄「夏に語る」に、ジャーナリストむのたけじさんの長文のインタビュー記事が掲載されています。
 93歳のむのさんは1945年8月、新聞が戦争の実相を国民に伝えてこなかったことに責任を感じて朝日新聞社を退社し、その後、郷里の秋田県で週刊新聞「たいまつ」を創刊したことで知られます。略年譜を朝日新聞の記事より引用します。
1945年 8月、「負け戦を勝ち戦とだまして報道した責任をとる」と朝日新聞を退社。40年に報知新聞を経て朝日に入社し、中国特派員や東南アジア特派員などを歴任していた
1948年 郷里の秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊
1978年 780号をもって「たいまつ」休刊
2001年 たいまつ休刊後、農業問題を中心に各地を講演、その活動が評価され農民文化賞を受ける
2003年 秋田県湯沢市で「平和塾」を開講。「塾」は05年まで続いた

 あの戦争を新聞記者として体験し、戦後は商業新聞の外に身を置いて平和のための運動を続けてきた大先輩の数々の指摘は、わたしには厳しい叱咤のようにも、また励ましのようにも読み取れました。
 実は昨年10月、沖縄で開かれたある集会で、むのさんのお話を直接、聞く機会がありました。そのときのもようは後述します。まずは朝日の記事本文の書き出しを引用します。
 転換点は、あるのではなくて、自分でつくるのよ。それは12月8日。始まった日があるから原爆があって終わった日、8月15日がある。原因をつぶさなければ同じことが起きる。なぜあの日があったのか。その日の様子はどうだったのか。誰が仕組んだのか。国民の誰一人として相談受けなかったでしょ。
 朝日新聞も、真珠湾奇襲の大軍事行動を知らなかった。私は東京社会部で浦和(現さいたま市)に住んでいて、朝6時か7時か本社から電報が来たの。全社員に同じ文章。「直ちに出社せよ」だ。うんと寒かったな。
 行ってみたら戦争が始まったって。編集局みんなショック受けちゃって。だれも物言えなかった。異様な沈黙でしたよ。最初は「戦争状態に入った」。しばらくして「真珠湾で軍艦やっつけた」。そういう発表があったけど、万歳なんて喜ぶ馬鹿はいなかったな。通夜みたいな感じでした。何も知らないうちに始まったショックと、これからどうなるかという不安ですよ。
 そしてずるずると300万人の同胞を死なせ、2千万人の中国人を殺した。こんなことがあっていいのかと考えなきゃいかんでしょ。考えたらそうならないための365日の生活の中での戦いが必要だということになるんじゃないですか。

 自身の戦後と、現在の戦争と平和に対する考えについては次のように語っています。
 私は朝日を退社以来、戦争をなくすることに命をかけてきた。平和運動だ、抗議集会だと何千回もやったけど、一度も戦争をたくらむ勢力に有効な打撃を与えられなかった。軍需産業は成長しているんじゃないの。「戦争反対行動に参加した私は良心的だ」という自己満足運動だから。それでも意思表示をしないと権力は「民衆は反対していない」と勝手な判断をするからやめるわけにはいかない。
 でもそれだけじゃダメだ。今は「戦争はいらぬ、やれぬ」の二つの平和運動でないとならない、と怒鳴り声をあげている。
 「いらぬ」というのは、資本主義を否定すること。戦争は国家対国家、デモクラシー対ファッショなどあったが、今、根底にあるのは、人工的に起こす消費。これだけなんだ。作って売ってもうける。そこにある欲望が、戦争に拍車をかけてきた。
 無限の発展はいらない。当たり前の平凡な、モノ・カネ主義でない、腹八部目で我慢する生き方が必要なんです。地球の環境を大事にするとか、スローペースの生き方ですよ。
 そのことに一人一人が目覚め、生活の主人公になること。これが資本主義を否定する人間主義の生き方。戦争のたくらみをやめさせるのはこれなんだ。

 全文で170行以上の長大な記事ですが、従軍記者経験に基づいて「戦争には、弾丸の飛ぶ段階と飛ばない段階がある」と看破していることにも強い印象を受けました。朝日新聞のサイトにはアップされておらず、紙面を手に取るしかないようですが、現在のマスメディアの記者にぜひ読んでほしいと思います。

d0140015_1058151.jpg むのさんは昨年10月、沖縄で開催されたマスメディア労組主催の集会で基調講演をしました。当時、わたしは労働組合専従から復職して1年余の時期で、自身の仕事の意味や働き方を再確認しなければならない、との思いが日増しに強まっていました。むのさんが集会に参加することを聞き、たまらず週末の休みを利用して沖縄に行きました。少し長いのですが、以下に、わたしが当時所属していた労組の新聞研究活動の機関紙に投稿したレポートを再掲します。写真は沖縄の集会での、むのさんです。

 「戦争が始まってしまってから『ヒューマニズム』や『反戦平和』と言ってみても何の役にも立たない。戦争を止めようとするなら、やらせないことしかない」。むのたけじさん(92)は大きな声で切り出した。10月13日(土)、那覇市で開かれた沖縄県マスコミ労働組合協議会主催の2007反戦ティーチイン「戦争への道を止めるために―ジャーナリズムと労組の責任を考える」に参加した。むのさんは1945年8月、自らの戦争責任を明白にして朝日新聞社を退社し、戦後は郷里の秋田県・横手で週刊新聞「たいまつ」を刊行。今も反戦・平和に積極的に発言を続けている。今回は秋田から来訪し、「いい記事を書くために、生活の現場に心を砕き、自分の命を洗いながら、民衆の中に飛び込んでほしい」と後輩のわたしたちをも励ました。むのさんの基調講演を紹介する。
 沖縄マスコミ労協は、沖縄県内の新聞、放送の労働組合で結成。毎年10月を反戦月間と位置づけ、市民参加のティーチインを開催している。新聞労連や民放労連、出版労連が加盟する日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)が昨年から共催に名を連ね、平和と民主主義を守るための運動の一環として、広島や長崎とともに、地域のマスコミ共闘組織との連携・共闘の柱と位置づけている。ことしの沖縄の反戦ティーチインには、MICからの30数人を含め、組合員と市民計約200人が参加。14日付の沖縄タイムス、琉球新報両紙も社会面で紹介した。
 むのさんはまず「戦争を食い止めるために、ジャーナリズムと労働組合にも責任があることは明らかだ。しかし、今の日本のジャーナリズムと労組に第3次世界大戦を食い止められるか。今のままでは可能性はゼロだ」と言い切った。続けて「70数年間の経験から言うと、既に第3次大戦は始まってしまった」とも。「戦争を止める」ということについて、要点を3点に要約した。
 第1は、戦争が始まってしまってからでは、ヒューマニズムや反戦・平和と言ってみても何の役にも立たない、戦争を止めるなら「やらせない」ことしかない。第2は、戦場では相手を殺さなければ自分が殺される。この一事のために、全身が縛り付けられ、やがて人間は一個のけだものになってしまう。社会にも同じムードが漂う。武器を手にしていようがいまいが、戦争とは人がけだものになることであり、社会がそれを許すこと。第3は、戦争には2つの段階、すなわち銃砲弾が飛び交う段階と、その以前の段階との2つの段階があること。
 第3の点に関連して、むのさんは戦前戦中の自身の取材経験を話す。日本軍はインドネシア占領後、昭和17年3月に軍政を布告し、司令官が大東亜共栄を宣言した。しかしその宣言は一字一句、太平洋戦争開戦から1年半も前に準備されていたものだった。「戦争を企んでいた連中は、昭和15年のときから、あるいはもっと以前から準備を進めていた。弾が飛ばない前の段階で民衆を組織しないと、戦争は防げない」とむのさんは強調する。治安維持法をはじめとする統制で当時は縛られていたが、今は報道の自由があり、抵抗する権利があり、主権者は国民だと明白に憲法に書かれている。
 「最近は目が不自由になり、情報源はNHKのニュースだけ。しかし、そのNHKニュースだけ聞いていても、もはや第3次大戦は始まっている」。むのさんは、米陸軍第1軍団の神奈川移転計画が持ち上がったときが、その始まりだと指摘する。「第1軍団の任務地域は中国からインドにかけて。その司令部を米本土から現地に近い日本に移すということは、近い将来に中国からインドにかけての地域で米軍が軍事行動を想定しているということだ」。時に仲良く見せながら、戦うか否か、つばぜり合いが続く。これから3年―5年が、戦争を食い止められる最後のチャンスになるだろうと、むのさんは言う。
 では、どうやってその戦争を食い止めるのか。その一つの道として、むのさんはジャーナリストのヒューマニズムを挙げる。戦時中、多くの従軍記者が戦場に赴いたが、どんなに危機に陥っても、自分で銃を手に取ろうとした記者はいなかった。そこに、ヒューマニズムに根ざす近代の情報産業の命があるのではないか、とむのさん。「マスコミが本来のマスコミの姿で真実をはっきり暴き出し、民衆に伝えること。マスコミが本来の役割を果たせば、民衆が戦争を止めるエネルギーを作り出す」。
 「これは今日、ここにいる皆さんへのお願いだ」と、むのさんの声に一段と力がこもった。「何でもいい、明日からの自分を作る目標を持って欲しい。それをエネルギーに、現場の中で、労働者の連帯の中でがんばってほしい」。互いに意見をぶつけ合うことが必要だとも。戦時中は、職場でも2人では会話ができても、3人目が来ると皆口をつぐんだという。「だから観念論はあっても、戦争をやる人間を止められなかった」。
 新聞記者に対しては「生活の現場、人間の関係を密にすることに心を砕け」と訴える。「人間として自分の生活も大事にしながら、読者の中に入って学び、自分の命を洗いながら民衆の中に飛び込んで行くこと」。そうでなければ面白い記事は書けない、と言う。
 「観念論ではダメだ。労組も政党も数を頼るからダメだ。数だけ70万人集まっても、死を覚悟した7人の方が強い」。1人1人が自分を変えながら、人との結びつきを作っていくこと。「観念論を卒業して、新しい人類を作っていくためにがんばろうじゃないか」と、むのさんは講演を締めくくった。

 62年前に日本の敗戦で終わったあの戦争の時代を、新聞人として生きたむのさんの話を聞きながら「戦争で最初に犠牲になるのは真実」「戦争が起きた時点でジャーナリズムは一度敗北している」という有名な2つの言葉をあらためて思い起こした。あの時代、新聞産業は戦争遂行に加担した。むのさんは自らの戦争責任と向き合い新聞社の職場を去ったが、戦後の新聞の労働運動は「2度と戦争のためにペンをとらない、輪転機を回さない」が合言葉になった。あの時代を新聞人として生きた先輩たちの思いはみな一緒だったのだろうと思う。「もはや戦前」とも言われ、むのさんによれば「弾が飛ばない段階として、既に戦争は始まっている」という今、「観念論ではダメだ」というむのさんの言葉が胸に突き刺さる。
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by news-worker2 | 2008-08-24 11:02 | 憲法
 4月から続けていた明治学院大学社会学部の非常勤講師の講義が昨日(12日)で終わりました。「新聞ジャーナリズム」をテーマに計13回の講義でしたが、終わってみると「あっという間」だったというのが率直な印象です。
 以前のエントリ(カテゴリー「非常勤講師」)でも触れてきましたが、これまで主に「表現の自由」が新聞のジャーナリズムで実現されているか、新聞が「表現の自由」と「知る権利」を守ろうとしているかを中心に話してきました。昨日の講義のタイトルは総まとめとして「新聞は戦争を止められるか」としました。これまで25年間、新聞の仕事に携わってきたわたし自身の思いでもあります。
 日本社会の現代史は1945年8月の敗戦が大きな契機になっています。敗戦当時の新聞はと言えば、ひたすら戦意高揚のためだけの存在だったと言っていいと思います。その典型的な例として、45年3月10日に10万人以上が犠牲になった東京大空襲の報道を昨日の講義でもあらためて取り上げました。これもまた以前の講義で紹介したことですが「戦争で最初に犠牲になるのは真実」という言葉通りです。戦争をする国家は、実際に何が起きているのか、その実相のすべてを国民に明らかにはしません。その果てに何があるのか、わずか63年前に日本の社会で、わたしたちの父母や祖父母はそのことを身をもって経験したのだと思います。
 翻って今、わたしが暮らす日本の社会では、3つの流れが進んでいるとわたしなりに感じています。まず「戦争社会への道」。軍事面での日米の融合・一体化が進み、「日米同盟」という用語も何ら違和感なく新聞が用いています。自衛隊は米軍の支援のためにイラクやインド洋に派遣されており、より一体化を進めるために在日米軍の再編が進行中です。防衛庁は「省」に昇格し、自衛隊の海外派遣は本来任務のひとつと位置づけられました。有事法制も整備されています。改憲が加われば、名目上は国際協調のもとでの〝正義の戦争〟に限定されるにせよ、日本は法律面でも実体面でも戦争ができる国になるでしょう。
 2つ目は「監視社会への道」です。いわゆるビラまき逮捕事件の続発と有罪判決では、摘発されたビラまき行為はいずれも何がしか政治的主張を含むものでした。現在は表面的には沈静化しているものの、人間の内面を取り締まりと処罰の対象にすると言ってもいい「共謀罪」新設の動きもあります。最近では、恣意的な運用への危惧をぬぐいきれないインターネット規制の動きも加わってきました。
 3つ目は「格差社会への道」です。このことを強く意識し始めたのは新聞労連の専従役員の時期でしたが、今では「貧困」をキーワードに考えるべきなのかもしれません。
 「戦争社会」と「監視社会」と「格差(貧困)社会」の3つの流れは、相互に強い関連があると思います。貧困の拡大と戦争については、例えば堤未香さんの「ルポ 貧困大国アメリカ」に書かれている通りです。この3つの流れが一つになるとき、「表現の自由」と「知る権利」はどうなっているだろうかと考えると、わたしは「だからこそ、社会に『表現の自由』と『知る権利』が保障されていなければならない」と強く思います。新聞というマスメディアにジャーナリズムを生き続けさせようとするならば、3つの流れの中の一つ一つの出来事に「表現の自由」と「知る権利」の観点からこだわっていかなければならないと思います。新聞の使命は突き詰めれば社会の「表現の自由」を守り、「知る権利」に奉仕することであり、そうすることを通じて「戦争を止める」ことだと考えています。
 昨日の講義では、最近読んだアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義」(幾島幸子訳、水嶋一憲・市田良彦監修、NHKブックス)も紹介しました。わたしの理解が正しいかどうかの問題はさておいて、ネグリらの言うネットワーク権力の「帝国」の時代に、マスメディアは「帝国」の広報・宣伝機関になっていはしないだろうか、それで終わっていいのだろうか、ということを強く感じています。そのまま戦争報道が行われれば、かつての「大本営発表」報道と変わるものはないでしょう。マスメディアという組織に身を置くとしても、わたしという「個」は一人のworkerとして、ネットワーク権力に対抗して真の民主主義と平和を求める「マルチチュード」に連なっていきたい、希望のネットワークに連なっていることを実感することで、わたしの仕事である新聞のジャーナリズムにも希望を失わずにいたいと願っています。

d0140015_0151997.jpg 「『教える』は『学ぶ』に通じるから」と勧められ引き受けることにした講義でしたが、まさにその通りの得難い経験でした。大学の講義と呼ぶにはあまりに拙い内容でしたが、それでも学生たちの内面に何がしか新聞やマスメディア、さらには世の中のことに思うところが出てきたとすれば、こんなにうれしいことはありません。
 わたし自身は、多くの新聞が並び立ち、多種多様な情報が社会に発信されていること自体、価値があることだと考えています。マスメディアだけではなく、ネットでも自由な情報発信が保障されていることにもまた同じように価値があると思います。それぞれの「個」が多種多様の情報に触れ、一つ一つの情報の意味を読み解いていくリテラシーを高めれば、「個」と「個」がつながる希望のネットワークはさらに強まり、大きくなっていくと確信しています。

 *決して広くはありませんが、気持のいいキャンパスでした。記念に撮った1枚をここに残しておきます。
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by news-worker2 | 2008-07-14 00:20 | 非常勤講師
d0140015_0193660.jpg 以前のエントリーで報告したシンポ「憲法25条・生存権とメディア」でのやり取りを聞いていて、堤未香さんの「ルポ 貧困大国アメリカ」を思い出しました。
 全5章にわたって、米国社会の貧困の問題を詳細にリポートし、それが米国一国の問題にとどまらないことが浮き彫りにされていきます。中でも、貧困の拡大がイラクで「戦争の民営化」を支えている、との指摘には大きな衝撃を受けました。ここでわたしの拙い表現で本書の内容を紹介することはやめて、プロローグの最後の部分を引用、紹介します。

 同じアメリカ国内で、貧しいために大学に行きたくても行けない、または卒業したものの学費ローンの返済に圧迫される若者たちや、健康保険がないために医者にかかれない人々、失業し生活苦から消費者金融に手を出した多重債務者、強化され続ける移民法を恐れる不法移民たち…こうした人たちが今、前述したフェルナンデス夫妻と同じように束の間の「夢を見せられ」、暴走した市場原理に引きずり込まれているのだ。(中略)
 そこに浮かび上がってくるのは、国境、人権、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在、私たちが今まで持っていた、国家単位の世界観を根底からひっくり返さなければ、いつのまにか一方的に呑み込まれていきかねない程の恐ろしい暴走型市場原理システムだ。
 そこでは「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく。(中略)「民営化された戦争」に商品として引きずり込まれていくという流れは、この本に出てくるさまざまな例を通して映し出されている。


 2003年3月にイラク戦争が始まって以後、イラク民衆の戦争被害のほかにも、わたし自身の関心はイラクで死んでいく若い米兵たちにもありました。彼らはこれまでどこでどんな時間、人生を送り、何を思い軍に志願し、どういう経緯でイラクに送られたのか。それらの一つ一つがジャーナリズムの課題でもあるだろうとも考えていましたが、堤さんのルポは、これらのわたしの「知りたい」に十分に応えてくれました。

 貧困が社会不安を増大させ、ひいては戦争を招く要因であること、だから平和を永続させるためには貧困の解消が必要であり、そのために労働者の地位の向上と権利の保護が必要なこと。これらは人類が戦争を繰り返す中で得てきた歴史の教訓だと、わたしは労働運動に身を置く中で考えるようになりました。言い方を変えれば、労働運動とは本来的、根源的に平和を永続させるための運動でもあるはずだと考えています。
 数ある国連機関の中で、労働者の地位向上と権利の保護を大きな目的とする国際労働機関(ILO)が生まれたのは、第一次世界大戦が終結した1919年でした。そのILOの憲章前文には次のように明記されています。

 世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができるから、
 そして、世界の平和及び協調が危くされるほど大きな社会不安を起こすような不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在し、且つ、これらの労働条件を、たとえば、1日及び1週の最長労働時間の設定を含む労働時間の規制、労働力供給の調整、失業の防止、妥当な生活賃金の支給、雇用から生ずる疾病・疾患・負傷に対する労働者の保護、児童・年少者・婦人の保護、老年及び廃疾に対する給付、自国以外の国において使用される場合における労働者の利益の保護、同一価値の労働に対する同一報酬の原則の承認、結社の自由の原則の承認、職業的及び技術的教育の組織並びに他の措置によって改善することが急務であるから、
 また、いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となるから、
 締約国は、正義及び人道の感情と世界の恒久平和を確保する希望とに促されて、且つ、この前文に掲げた目的を達成するために、次の国際労働機関憲章に同意する。


 今の日本社会の貧困が先々、わたしたちに何をもたらすのか。貧困の解消のために何が必要なのか。いずれの課題を議論するにも、まずは「今起きていること」が知られなければなりませんし、今までの例えば労働運動が貧困を生まないために、貧困の解消のために何をしてきたのかも検証が必要だと思います。堤さんのこのリポートは、ジャーナリズムと労働運動の双方にかかわってきたわたし自身にとって、大きな道しるべだと感じています。

参考 ILO駐日事務所ホームページ
 *ILO憲章の日本語訳文があります
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by news-worker2 | 2008-04-27 02:53 | 読書
 新聞のジャーナリズムをテーマに、今月から非常勤講師として始めた明治学院大学での講義は26日が3回目になります。初回と2回目は、ガイダンス的に新聞のあれこれを話してきました。導入部の総論のつもりでしたが、取り留めのない内容になってしまったかもしれません。3回目から本論に入って、新聞のジャーナリズムの検証を進めていくつもりです。
 授業の本論では、まず戦争・軍事報道を取り上げようと思います。日本では全国紙、地方紙を問わず戦前からの歴史を持つ新聞が多いのですが、敗戦後の再出発に当たり、それぞれに戦争を止められなかった苦い経験を踏まえ、新しい民主主義社会の中での新聞の役割を確認しました。わたしなりに考えているのは、新聞の役割とは、突き詰めていくと「戦争を止める」ことに行き着く、ということです。それが実現できているかどうかは別の問題なのですが、わたし自身にとっては今でも変わらない職業上の責任だと考えています。
 新聞がいちばんこだわらなければいけないのは「表現の自由」と「知る権利」です。では、戦争になったときに「表現の自由」と「知る権利」に何が起こるのか。それは戦争になった時に起こるのか。それとも、戦争になる前から起きているのか。ささやかな個人的な経験ですが、そんなことを考えざるを得ない、わたしにとっては痛切な出来事が3年前、労働組合の専従役員だったときにありました。1945年の東京大空襲を調べていて、当時の新聞の「大本営発表」報道を目にしたことです。
 今日ならほんの少しの労力で、一夜で10万人を超える人々が死んでいったこの出来事のことを知ることができます。しかし、当時の報道はそうではありませんでした。

(1945年3月11日付朝日新聞の記事)
B29約百三十機、昨暁
帝都市街を盲爆
約五十機に損害 十五機を撃墜す
「大本営発表」(昭和二十年三月十日十二時)本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
 撃墜 十五機 損害を与へたるもの 約五十機


 以上の見出しと「大本営発表」の本文部に続いて、おそらく朝日新聞の記者が書いたであろう記事が続きます。

(続きます)
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by news-worker2 | 2008-04-25 00:55 | 表現の自由