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d0140015_1464464.jpg マスメディア、それも新聞産業の編集職場で働いていると、新聞記者が語るジャーナリズムは、「新聞」というマス媒体が今後も今までと同じようなマス媒体であり続けることが前提になっている、と感じます。「新聞が読まれなくなっている」こと自体は、最近では新聞社内で販売部門や広告部門だけでなく、編集部門の記者でもみな自覚しています。しかし「どういう風に読まれなくなっているか」となると、考えている人は意外と少ないのではないかと思います。新聞を手に取ってくれる人が減ってきていることは知っている。しかし「読者」と聞いて思い描くイメージは今までと変わらない「マスの人々」のまま。新聞記者の多くは、それが実状ではないか。日々、働いている中でのわたしの実感です。
 少しだけ具体的に言えば、新聞の作り手の側が考えるジャーナリズムでは「生活」とか「生活者」が大きなキーワードになっています。年金問題にしても、医師不足など医療問題にしても、あるいは米国発の金融・経済危機にしても、それをどう報道していくかというときに必ず「生活にどうかかわるか」「生活者の視線で」ということが重視されます。用語のバリエーションとしては「庶民」もこうした発想に含まれています。少し前に、新聞各紙がこぞってルポ風に取り上げた麻生首相のホテル・バー通いなどは、こうした発想がストレートに記事に反映された例と言っていいと思います。
 わたしは最近、そうした「読者=生活者=庶民=マスの人々」という新聞の作り手側の画一的とも言っていい発想に、違和感を抱くようになってきました。働き方一つを取っても、賃金労働者の3分の1以上を、派遣社員をはじめとする細切れ雇用の「非正規労働者」が占めるようになって久しいというのに、あたかも均一な「マス」が以前と同じように読者として記事を待っているかのような発想から抜け出ていないのではないか、という気がしています。ワーキングプアと呼ばれる貧困層にとって、朝夕刊セットで月々4000円近い大手紙の購読料は、それこそ「生活」防衛のためには真っ先に切り捨てられる項目でしょう。何の疑いもなく「夫婦と子ども2人の標準的な世帯の場合」といった例えが書かれている記事を、結婚したくともできない、子どもを産みたいと思っても産めない非正規雇用の若年層が読みたいと思うでしょうか。
 営業部門だけではなく編集部門の記者も、いや記者職こそ、「読者」を真剣に考えなければならないと思います。いったい、だれに読んでもらうために取材し記事を書くのか、ということです。そもそも取材にコストがかかることは、記者ならだれでも知っています。コストをかけて(何人もの記者を抱える人件費も含めて)丹念な取材ができることが新聞のジャーナリズムの特長である以上、そのコストをどうひねり出すかという問題は、一義的には経営の問題だとしても、今や「だれに何を読んでもらうのか、そしてだれから金をもらうのか」という意味で、編集のジャーナリズムも無関係ではありえません。新聞のジャーナリズムのどこがどう変わっていけばいいのか、答えはそんなに簡単には見いだせないと思いますが、議論と模索は必要です。
 前置きが長くなりましたが、そんなことを考えているときに時事通信編集委員の湯川鶴章さんの新著が刊行されました。一般にはタイトルからも内容の面でも、広告論として読まれているようですが、新聞をメインとする既存マスメディアの編集職場にいるわたしにとっては、新聞のジャーナリズムの今後を模索する上で示唆に富んだ一冊になりました。
 繰り返し登場するキーワードは漫画サザエさんに出てくる「三河屋さん」。磯野家の家族構成はもちろんのこと、しょう油1本にしても「そろそろ切れるころだ」と思ったら注文取りのときに「しょう油はどうしますか」と水を向け、波平さんの血圧が高ければ減塩の商品を奨める。例えればそんな情景で、顧客の嗜好・事情ごとにきめ細かく対応する情報サービスがデジタルの技術革新によって実現し、将来は広告のみならず消費行動そのものまで変わっていく、との指摘が、米国の最新事情の取材成果とともに示され、質の高いルポルタージュを読んでいるようなおもしろさに、知らず知らずのうちに引き込まれます。
 本書で直接、紹介されているのは広告ですが、これを記事(ニュース)の流れに置き換えればどうなるだろうか、ということを読んでいる最中から考えていました。新聞にしてもテレビにしても、ニュースは送り手側が「これがニュースだ」と判断したものを独自にパッケージにまとめて、マスの読者に向けて発信してきました。新聞社が自社サイトを設けてネット上でもニュースを発信するようになっても、根っこのところのニュースに対する考え方は変わりがありません。話をすっきりさせるために、新聞に限定して書いていきますが、新聞社からマス読者へ、「1対多数」の関係です。
 しかし、ネットとテクノロジーによって、まず広告が「1対多数」から「1対1」にシフトしていくのだとしたら、この先に何が起きるのでしょうか。新聞社の収益は大きく言えば広告料と購読料の2つです。新聞の広告媒体としての地位の低下と、販売部数の低迷が新聞社の経営を大きく揺さぶりつつあることは一般にも知られるようになっています。既に新聞社はどこも相当な金と人手をかけてネット展開に乗り出していますが、本気で新たな収益源の確保をネットに求めようとするなら、少なくとも画一的な「読者=生活者=庶民=マスの人々」を想定したような、従来のジャーナリズムだけでは太刀打ちできないと思います。マスの中の一人ひとりの「個」を見ながら「1対1」の関係を想定したジャーナリズムの可能性をいかに模索していくのか。情報の送り手と受け手の「1対1」の関係の集積としての「マス」、その意味でのマスメディアにどうやって自らを変えていくのか。当然、読者との間に双方向の関係もなければならないでしょうし、メディア内部での「個」の尊重という観点も重要です。要は、ジャーナリズムの中味も変わらなければ、新聞社は企業としても、ジャーナリズムとしても生き残れないのではないか。そこに経営者はもちろんのこと、一人ひとりの記者も気付くかどうかがポイントなのだという気がしています。
 湯川さんが本書を書かれた意図、訴えたかったことを正確にわたしが理解できているかどうかは心もとないのですが、以上が新聞記者の一人としてのわたしなりの読後感です。

 湯川さんには新聞労連の専従役員時代、労連の学習集会などで何度も講師をお願いしました。ネット社会をどう考えていけばいいのか、当時、湯川さんに教えていただいたことを一つひとつ思い出しながら、わたしの立場でわたしなりの実践を模索しています。本書も1人でも多くの新聞記者に読んでほしいと思います。
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by news-worker2 | 2008-11-30 13:53 | 読書
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 さいたま市南区で18日午前、元厚生省事務次官の山口剛彦さん夫妻が殺害されているのが見つかり、夜には東京都中野区でやはり元厚生省事務次官の吉原健二さんの妻が自宅で刺され重傷を負った事件は、22日夜になって警視庁に血の付いたナイフなどを持った男(小泉毅容疑者)がレンタカーで出頭し、捜査が大きく展開しました。「ペットを保健所に殺された」などの供述は動機として理解しにくく、本当に彼が真犯人なのか、ということも含めて、事件の全体像の解明にはなお時間がかかると思います。新聞をはじめマスメディアは、予断を排してまずは事実を伝えていくことに徹しなければならない、そういう事件だと思います。
 「予断を排して事実を伝える」ということにも大きくかかわってくるのですが、この事件の報道をめぐっては、事件発生以来、気になっていることがあります。「テロ」という用語です。
 事件と報道の経緯を簡単に振り返ると、まず18日午前、山口さん夫妻が自宅で殺害されているのが見つかりました。この時点では、山口さんが元厚生次官という高級官僚だったことに驚きはあったものの、警察の捜査も報道も、怨恨なのか強盗殺人なのかなどを含めて予断を排した慎重な姿勢でした。しかし、その日の夜、吉原さんの妻が襲われたことが判明すると、状況は一変します。マスメディアの報道は早い段階からほぼ一斉に「政治的目的を持った連続テロの可能性」を前面に出します。警察当局がそうした見方をいち早く打ち出したことが最大の要因だったと思います。被害者像が「ともに事務次官経験者の元厚生官僚」に加え「ともに年金行政の専門家とされ、同時期に『年金局長―年金課長』を務めていた接点がある」など、相次いで襲われたことは「偶然」とは考えにくく、いわゆる「消えた年金問題」などで厚生労働省、社会保険庁が批判を浴びていたことなどを考えれば、警察、あるいは政府とすれば、犯人逮捕もさることながら第三の被害を未然に防ぐことの方がより切迫した課題だったと思います。
 明けて19日、仮に政治的な目的を秘めた「連続テロ」ならば、犯人から何らかのメッセージが発せられるのではないかという予測がありましたが、結局は何もありませんでした。20日以降、2件の事件の共通点がいっそう鮮明になり、同一犯説が強まっていきますが、報道からは「テロ」という用語は後退していきました。
 さて、わたしが気になっているのは、18日夜の段階で警察や政府当局が「連続テロ」を想定することと、新聞などマスメディアが事件を「連続テロ」として、ないしは「連続テロの可能性」を報じることとを、当のマスメディアはどこまで峻別していたか、あるいは峻別しようとしたか、ということです。手元の新聞で調べた東京都内発行6紙の19日付朝刊の第一面本記がどんな見出しになっていたかを列記します。

 ▽朝日新聞
元厚生次官狙い連続テロか」「山口夫妻殺害 吉原氏の妻重傷」「年金改革進めた2人」
(本文中は「警察庁は連続テロとの見方を強め~」)
 ▽毎日新聞
元厚生次官宅連続襲撃」「中野でも妻が重傷」「宅配装った男に刺され」「警察庁『年金官僚』警備強化」
(本文中は「警視庁と埼玉県警は2人の次官が同じような経歴を持ち、手口も似ていることなどから関連があるとみて捜査~」)
 ▽読売新聞
元厚生次官宅連続テロ」「都内、妻刺され重傷」「さいたま夫婦刺殺」「共に元年金局長」
(本文中は「警察庁は~テロの可能性があるとみて」)
 ▽日経新聞
元厚生次官狙い連続襲撃か」「さいたまで夫婦刺殺」「東京・中野でも妻重傷」
(本文中は「警察庁は厚生次官経験者らを狙った連続テロ事件の可能性もあるとみて~」)
 ▽産経新聞
元厚生次官宅連続テロか」「埼玉で夫婦殺害 中野で妻重傷」「ともに年金ポスト経験」
(本文中は「警察庁は連続テロの可能性があるとみて~」)
 ▽東京新聞
元厚生次官宅連続テロか」「中野でも妻刺され重傷」「さいたまの夫妻殺害と断定」「警察当局、関連を捜査」
(本文中は「警察庁は元厚生官僚を狙った連続テロの可能性もあるとみている」)

 独自のニュースバリュー(価値)判断を身上とする新聞にとって、第一面のトップ記事の見出しは言ってみればメディアとしての「命」のようなものです。その見出しを比べると、毎日と日経が「テロ」を使っていないのが目を引きます。毎日は一面の本記本文のリード中にも使っていません(社会面には「年金テロなのか」の大見出し)。一方、「テロ」を使用した4紙の中で朝日、産経、東京の見出しはいずれも「連続テロか」と、断定は避けた表現なのに対し、読売だけは「連続テロ」と言い切った表現です。本文中は「テロの可能性があるとみて」となっているのにです。「テロ」の強調度は読売>朝日、産経、東京>日経>毎日の順になります。
 続く19日付夕刊の一面では、見出しから「テロ」がなくなっているのが大勢を占める中で、読売新聞だけは事件名を示す3本目の見出しに「元厚生次官宅連続テロ」と取り、本文中にも「連続テロとみられる事件で」と朝刊の「可能性」から一歩進めた表現になっていました。ちなみに翌20日付朝刊一面では各紙とも見出し、本文とも「テロ」は消えました。
 各紙とも把握している情報はほぼ同一なのに、なぜこれだけの違いが出たのでしょうか。推測にすぎないのですが、毎日新聞や日経新聞では、編集部門で「テロ」の用語の定義づけに相当な議論が行われたのではないかと考えています。
 そもそも「テロ」の用語には、例えばウイキペディアの「テロリズム」の項をみても、一般に広い解釈の余地があるとの印象があり、何がテロなのかの定義づけ自体に政治的な意味合いが含まれることも指摘されています。18日夜の時点で、警察当局にとっては第3の事件を起こさせてなならないことが最重要であり、その観点からは政治的目的を持ったテロの可能性も想定しておかなければならなかったことは当然でしょう。警察当局のその想定に沿って、新聞などマスメディアがテロの可能性を報じることは必ずしも間違いではないし、警察当局が2件の事件の関連性をどうとらえているかということ自体、ニュースバリューはあります。
 しかし、一方で「テロ」という用語からイメージするものが人それぞれによって幅があることを踏まえるなら、警察当局が「テロ」という用語を使っているからといって安易に使わず、言葉を置き換えて報道することもまたジャーナリズムの見識ではないかと思います。用語の定義づけも定かではないままに安易な用法に流れることは、自覚しないままに当局側と同じものの見方に立ってしまう危険があるからです。
 「テロ」という用語は、外信部門では例えば米国の「テロとの戦い」、イラク情勢で「自爆テロ」などの用語が紙面に載っています。「テロとの戦い」は米国大統領が言い出したまさに政治的用法として、そのままに伝えることにも意義があると思いますが、イラクの米兵に対する「自爆テロ」は「自爆攻撃」と置き換えることも可能です。「テロ」を使うことで、知らず知らずのうちに米大統領と同じ価値判断に立ってしまう恐れはないでしょうか。アラブ情勢に詳しい記者からかつて聞いた話ですが、日本のマスメディアが「米兵にまたテロ」と伝えた同じ出来事を、アラブの反米系メディアは「抵抗勢力が連戦連勝」と伝えていたそうです。
 いずれにせよ、情報は言葉を介して伝わっていくものである以上、解釈に幅がある用語、それ自体に政治的意味合いを持つ用語などは、マスメディア内で用法を日常的に議論し、できれば可能な限りの定義づけや用法のガイドラインのようなものを情報の受け手(新聞ならば読者)に対して公開するスタンスもあっていいと思います。
 今回の事件の新聞各紙の報道に話を戻すと「どこそこの新聞はおかしい」という問題ではないと思いますが、事件を伝えるメインの記事の中で「テロ」の使用を限定的にした毎日新聞の見識は注目されていいと思います。
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by news-worker2 | 2008-11-25 01:09 | 新聞・マスメディア
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 新聞業界を就職先に考えている学生さんらへのお知らせです。
 全国の新聞社の労働組合でつくる新聞労連が、11月30日に東京で、12月6日に大阪で、新聞業界就職フォーラムを開催します。2010年春入社を目指す方々(10生)が主な対象です。
 以前のエントリー(お知らせ:9月に「マスコミ就職フォーラム」が開かれます)で紹介した出版や広告の労働組合との共催フォーラムの延長で、新聞業界に特化した内容です。今回のフォーラム自体は、新聞の仕事をビビッドに知ってもらい、職業選択の判断に役立ててもらうのが狙いです。採用試験対策のハウツーものではありませんが、参加すれば新聞社のデスククラスによる作文講座の応募資格もあるようです。
 詳しくはこちらへ。有料です。

 作文講座はわたしも新聞労連委員長の当時から講師を務めました。実践的な講習で、間違いなく文章を書く力がアップすると思います。仮に新聞以外の産業で働くとしても、「文章が書ける=伝えたいことを着実に伝えられる」能力は、様々に役に立つと思います。
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by news-worker2 | 2008-11-11 00:55 | 新聞・マスメディア
 以前のエントリー(暴力の矛先を身内に向け、自衛隊は何を守るのか~内部告発の受け皿へマスメディアは奮起のとき )で取り上げた海上自衛隊特殊部隊「特別警備隊」の隊員養成課程で起きた3等海曹死亡事件で、防衛省が22日、海自調査委員会の中間報告を公表しました。養成課程を2日後にやめることが決まっていながら、送別行事として15人を相手に連続格闘が行われていたことに対し、中間報告は「必要性は認めがたい」としています。しかし「連続格闘がなぜ行われたのか」との最大の疑問点に納得できる説明はなく、集団暴行ではないのかとの疑いは防衛省も否定することができない、とわたしは受け止めています。一方で、「中間報告」と位置付け、調査を継続するとしながらも、今後の調査項目の柱に教官や隊員の格闘技経験や適性、訓練としての妥当性を強調するなど、3曹の死亡を「事故」として決着させたい意図が透けて見えると感じています。

 *中間報告の全文PDFファイルが防衛省のホームページにアップされています。

 今回の事件では、自衛隊内の警察組織である警務隊も捜査中とされていますが、同じ自衛隊の中で、どこまで真相に迫れるかを疑問視する指摘もあります。これも以前のエントリー(ひとこと:護衛艦「さわぎり」訴訟の遺族勝訴判決が確定)で取り上げた1999年の護衛艦さわぎり乗組員の3曹の自殺では、9年後の今年、3曹が上司の侮辱的言動を苦にしていたことがようやく司法によって認定され、判決が確定ましたが、これは逆に言えば、遺族が裁判に訴えるところまでやらなければ、真相はうやむやのままにされていたかもしれないことを示しています。しかも、逆転勝訴判決が確定した後も防衛省からの直接謝罪はなく、両親が上京して防衛省に出向いた23日、応対した人事教育長がようやく「申し訳なく思います」と口にしました。共同通信の記事を引用します。
 海上自衛隊佐世保基地(長崎県)の護衛艦さわぎりの艦内で1999年に3等海曹=当時(21)=が自殺した原因を「上司の侮辱的言動によるストレス」と認め、国に賠償を命じた福岡高裁判決が確定したのを受け、防衛省は23日、3曹の両親に初めて謝罪した。
 同日午後、宮崎市在住の両親が同省を訪れ、再発防止の徹底を申し入れた際、応対した渡部厚人事教育局長が「かけがえのないご子息を亡くし、申し訳なく思います」と謝罪した。

 まるで「東京まで来たんだったら謝ってやろうか」と言わんばかりの対応だと思います。

 理不尽な連続格闘の末に命を落とした3曹の事件で、不透明な決着を許さないためには、自衛隊員個々の良心に行き場を確保し、内部告発が生かされる環境が必要だと思います。マスメディアにとっても、このようなケースこそ組織ジャーナリズムの持ち味を十分に発揮し、内部告発の受け皿たり得るように奮起しなければなりません。存在意義が問われている、と言ってもいいと思います。
 中間報告を報じた新聞各紙の扱いは、在京大手紙はおおむね社会面を中心に本記のみの比較的、地味な扱いでした。しかし、事件現場となった広島県の地元紙の中国新聞は、一面トップに共同通信配信の記事を5段見出しで大きく据え、社会面には共同通信記者の解説記事、連載企画「病める自衛隊」、中間報告要旨を掲載しました。亡くなった3曹の出身地の愛媛新聞も、共同通信配信記事を一面トップに据えています。
 自衛隊をめぐっては、存在自体に対して新聞ごとにスタンスは異なっていますが、3曹の死がいかなる理由をもっても正当化されないことに異論はないでしょう。だれが見ても納得できる形で真相が究明されるよう、マスメディアとしても取材を尽くし、繰り返し報ずべきです。
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by news-worker2 | 2008-10-24 03:01
 このブログを4月に始めてから半年が過ぎました。きょうもご訪問いただき、ありがとうございます。この機にブログのタイトルを「ニュース・ワーカーⅡ」から「ニュース・ワーカー2」に変更します。トラックバック先などで「Ⅱ」がうまく表示されないことがあるためです。
 旧ブログ(ニュース・ワーカー)の運営を休止後の約1年半は、気がついたらブログ界自体から遠ざかるようになっていました。新聞を中心とした仕事をしているため、新聞社のサイトはまめにチェックするのですが、ブログ界でどんなことが話題になっていようとも、直接、新聞制作にかかわってくることはまずないため、RSSリーダーも開かない日が自然と続くようになっていました。統計上の数字があるわけではなく、わたしの実感に過ぎないと言えばそのとおりなのですが、こうした状況は、新聞記者、中でも40代から50代のデスク層以上の編集幹部クラスに共通していると思います。「抜いた抜かれた」の競争がし烈だとは言っても、しょせんは新聞や放送など既存のマスメディア同士の枠組みに限られています。本音レベルでは関心は「いかに同業他社を出し抜くか」であって、「ネットの言論空間を含めて、知られていない事実を発掘し、社会全体にいかに早く届けるか」という意識は希薄だと感じています。
 ブログ再開とともに、毎日、他のブログやネットニュースサイトにも目を通す習慣が復活しました。ネット上の言論空間では、新聞社が記事として発信する情報も、個人がブログを通じて発信する情報も同列にフラットに扱われることを日々、実感しています。そもそもマスメディアが向き合う「マス」が、以前と同じように存在しているのか、ということも、自らの存在意義の再確認と再定義のために、マスメディアの内部で議論される必要があるだろうと考えています。
 今後も思うところや考えるところを、こつこつと書きつづっていきたいと思います。また、マスメディアで働くデスク層以上の幹部クラスの方々の中に、もしも個人としてネットリテラシーを高めたいと考えている方がいれば、匿名でもいいのでブログ運営をおすすめします。
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by news-worker2 | 2008-10-20 00:28 | 近況・雑事
d0140015_23575169.jpg 朝日新聞社ジャーナリスト学校が刊行していた研究誌「朝日総研リポート AIR21」が衣替えし「Journalism(ジャーナリズム)」10月号が刊行されました。朝日新聞のサイトの告知記事によると、「現場の記者、編集者や研究者らが執筆し、メディアの問題を考える月刊研究誌」とのことですが、最大の特徴は朝日新聞以外の新聞に所属する現役の記者が複数、論考を執筆していることでしょう。10月号では毎日新聞や高知新聞、沖縄タイムスなどの記者の名があります。
 日本の新聞ジャーナリズムをめぐっては、新聞社内で多くの場合、「新聞というメディア」と「新聞社という企業」とが峻別されないままに語られているとの実感をわたしは持っています。「Journalism」誌の発刊は、朝日新聞社のジャーナリスト学校の意欲的な試みとして受け止めています。
 「メディアリポート」では「放送」「新聞」「出版」の伝統的マス媒体とともに「ネット」(執筆者はブログ「ガ島通信」の藤代裕之さん)も取り上げています。同誌の今後に注目したいと思います。
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by news-worker2 | 2008-10-13 23:59 | 新聞・マスメディア
 8日付けの東京新聞夕刊の第2社会面に、宇佐見昭彦記者の署名入りで、麻生首相の〝失言〟(=事実誤認)を指摘する記事が掲載されました。一部を引用します。
 麻生太郎首相の誕生から2週間。地球温暖化に関し、麻生首相が「台風上陸が1度もないのは過去に例がない」と就任時に発言したことが、気象関係者の間で波紋を広げている。過去3例あって事実に反する上、上陸ゼロも異常とは言えず、温暖化との関連も認められないためだ。
 麻生首相は九月二十四日の会見で閣僚名簿を自ら発表。斉藤鉄夫環境相(留任)の名を読み上げた際、この発言が飛び出した。
 だが、一九五一年以降で上陸ゼロは八四年、八六年、二〇〇〇年の三例。九月末までゼロ(十月に上陸)の八七年も含めると、発言時点で首相は過去四例を見落としており、完全に誤りだ。
 また「四年前は九回上陸」も十回の誤り。「平均三回」についても、正確には平年(二〇〇〇年までの三十年平均)の上陸数は二・六だ。

 この記事を読むまで、首相の発言にこんな事実誤認があったとは気付きませんでした。まずは不明を恥じています。その上で、ということになるのですが、首相としていかにも言葉が軽い、との印象はぬぐえません。
 通例では、内閣発足時の閣僚の紹介は官房長官が行っていました。麻生首相は自らそれを行い、新鮮さをアピールしたのかな、と感じていました。しかし、ささやかな労力を惜しまずに調べていれば、このような事実誤認の発言は出るはずもない、そんなレベルの発言です。加えて言うならば、環境相に限らず、首相自らが閣僚を紹介するのであれば、このポストになぜこの人を選んだのか、人選の狙いを語るべきだったと思うのですが、課題は長々と説明しても、人選の意図、狙いはほとんど言及がありませんでした。
 「たかがその程度の発言で目くじらを立てるまでも…」との意見もあるかもしれませんが、新たに首相に就任した政治家の、しかも自らが選んだ閣僚の紹介の中での発言だけに、軽視すべきではないだろうと思います。マスメディアが社会に投げかけるに足る情報だと思います。
 
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by news-worker2 | 2008-10-09 04:07
d0140015_9355841.jpg 著者は元毎日新聞社会部記者。ネット社会をめぐる数々のリポートや発言は、いつも参考になります。最近では、毎日新聞の英文サイトWaiWai問題で、CNET‐Japan上のブログ「ジャーナリストの視点」の「毎日新聞社内で何が起きているのか(上)」「同(下)」多くのブックマークを集め、話題になっています。
 本書ではそのWaiWai問題の考察も含めて、ネット上に出現した新しい言論の公共圏が日本社会に引き起こしている変化を描いています。中でも、WaiWai問題はライブドア事件と郵政解散・総選挙があった2005年以来のエポックメイキングな出来事であるとの指摘には、あらためてうなずきました。実は本書をこの欄で取り上げる意図も、この点にあります。
 日本の新聞社各社も昨今はインターネット展開に躍起ですが、編集の現場(つまり新聞記者です)に限っては、とりわけ40-50代の幹部クラスは十分なネットリテラシーを身に着けているとは言いがたいのが実情だと感じています。そうした層にこそ、まず本書を手に取ってほしいと思います。既存メディアに対する数々の指摘は、恐らくいちいちが腹立たしいことでしょう。しかし、その腹立たしさをひとまずは抑え込んで読み進んでほしいと思います。読み終えた後も怒りは収まらないかもしれません。読後感は人それぞれかもしれませんが、あらためて新聞や新聞社のジャーナリズムの今日的な意義を考えるきっかけになれば、そういう人が1人でも増えれば、その分だけ新聞ジャーナリズムは存在の意義を強めることができるのではないか。わたしは本書の意義をそんな風に考えています。 
 
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by news-worker2 | 2008-10-05 13:38 | 読書
 以前のエントリ(近況:「軍事報道と表現の自由」の講義が終わりました)でも取り上げましたが、2005年5月に読売新聞が報じた中国潜水艦の事故の特ダネ記事をめぐり、読売新聞記者に情報を提供したとして、自衛隊の一等空佐が自衛隊法違反容疑で書類送検された問題に絡んで、大きな動きがありました。防衛省は10月2日、この1佐を懲戒免職処分としました。共同通信記事を引用します。
 南シナ海での中国潜水艦の事故をめぐる「防衛秘密」が防衛省から読売新聞記者に漏えいしたとされる事件で、同省は2日、自衛隊法(防衛秘密漏えい)違反容疑で書類送検された元情報本部課長の北住英樹1等空佐(50)=同本部総務部付=を、同日付で懲戒免職処分にしたと発表した。
 記者への情報提供を「漏えい」として、自衛官が懲戒免職となるのは初めて。書類送検を受けて捜査している東京地検が刑事処分を決める前に、同省が極めて厳しい処分に踏み切る異例の展開となった。背景には情報保全強化の流れがあり、取材を受ける公務員が萎縮(いしゅく)するなど「知る権利」「報道の自由」の制約につながる懸念がある。

 読売新聞東京本社は2日、編集主幹名で防衛省の処分を「遺憾」とする談話を発表しました。その中で今回の処分が「国民の知る権利にこたえる報道の役割を制約するおそれがある」と指摘する一方、読売新聞記者の取材は適正だったことも述べています。

 公権力が都合の悪いことを書かれたくなければ、方法は取材者への直接の弾圧に限りません。取材者の情報源、つまり情報の提供者を潰せば効果は同じです。「書かせない」だけではなく「書けない」状態に追い込めばいいのです。取材者に情報を内通すればどうなるか、見せしめを作れば、後に続く者はいなくなることが期待できます。
 情報提供者と取材者を同時に摘発すれば、「表現の自由」や「知る権利」への直接弾圧として激しい反発を受けるでしょう。しかし今回のように情報提供者だけを摘発した場合、処分を受けた情報提供者がその処分を受け入れてしまったら、処分が妥当かどうか、客観的な判断を仰ぐ場もありません。まさに今回の政府・防衛省の公式見解がそうなのですが「『表現の自由』や『知る権利』は尊重している。組織の規律の問題なのだ」との一見もっともらしい主張がまかり通ることになります。
 わたしが今回のケースでとりわけ問題だと考えるのは、軍事の分野での出来事である点です。

(続きます)
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by news-worker2 | 2008-10-05 01:11 | 表現の自由
 4月から務めていた明治学院大学社会学部の非常勤講師は、9月いっぱいで名実ともに終了しました。そのタイミングに合わせてでしょうか、きょう(10月1日)、授業の中で実施されていた「授業評価調査」の結果が郵送で届きました。
 これは、受講している学生にアンケート形式で授業に対する評価を提出してもらい、結果を授業の改善、向上に役立てるのが狙いで、いわば学生から教員への「通信簿」です。今ではだいたいどこの大学でも実施しているようです。
 設問は18あり5段階評価。通信簿を受け取るのは何十年ぶりでしょうか。少しどきまぎしましたが、うれしかったのは「この授業のテーマと内容についての関心は高まりましたか」「この授業から新しい知識が得られましたか」の2つの設問に、9割以上の学生が最高の「5」を付けてくれたことです。
 機会があれば、ぜひまた講師職にチャレンジしたいと思います。
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by news-worker2 | 2008-10-02 00:55 | 非常勤講師